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「エエでのウエさん」を嫌った知的熱血漢【上田利治氏逝去】

日本プロ野球の阪急、オリックス日本ハムで監督を務め、パ・リーグ優勝5回(うち日本一3回)の名将上田利治氏が1日に逝去。80歳。

www.daily.co.jp1999年に日本ハム監督を辞任後、野球評論家としてサンテレビなどで活動してきたが近年は闘病生活だったようだ。

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上田氏といえば選手を褒める時の口癖「ええで」。

「エエでのウエさん」と呼ばれ、訃報を伝える記事にも多数この言葉が並んだ。

しかし、浜田昭八氏の著書『監督たちの戦い』によれば上田氏本人はこのニックネームを嫌っていた。選手をおだてている印象を与えると気にしていたという。

上田氏いわく「マスコミのいないところでは他の監督より、選手をしかっている」。

確かに訃報を受けた、阪急・オリックスOBたちの談話にも「ええで」の他に厳しさの思い出が多数。
阪急時代には「ええで」で有望株を乗せつつ、福本豊氏のような実績十分のタフな選手を「叱られ役」にして引き締めたようだ。

選手としての実績を持たない監督上田の武器は情熱、言葉、記憶力の組み合わせだった。例えば伸び悩む若手にはあらかじめスカウト提供のアマチュア時代の資料、映像をチェックし、「都市対抗(もしくは甲子園)の時のキミのスウィングは良かった」などと具体例を挙げてアドバイス

抽象的な「ハッパ」に飽き飽きしている選手にとって、監督の期待がはっきり分かるこうした言葉は効果てきめん。そして上田氏の場合、単なる物知りではなく、記憶の引き出しを開けるタイミングがうまかった。監督晩年の日本ハムでもこの手法により金子誠氏を飛躍させた。

反省を求める時も3要素の組み合わせ。「・・・戦でもキミはバックアップを怠った」と何ヶ月前の話でもすらすら持ち出した。負け、ミスの記憶をきちんと引き出しに収め、適切なタイミングで開け、采配とチーム作りの両面で同じ過ちは繰り返さない姿勢を貫いた。

上田氏の球歴が花開くきっかけとなったのは西本幸雄氏から阪急のコーチとして招聘されたこと。実のところ西本氏は当初、山内一弘氏にコーチ就任を打診したが既に巨人監督の川上哲治氏にさらわれていた。その時、山内氏が西本氏に推したのが上田氏。西本氏は上田氏と当時一面識もなかったが山内氏の眼力を信用してコーチに迎えた。 

西本氏のもとで指導者学を身につけた上田氏は西本氏の後任として阪急監督に就任。西本氏から受け継いだ情熱に知的要素を加味した野球で西本氏の果たせなかった日本一を成し遂げた。浦山桐郎監督のドキュメンタリー映画のタイトル通り「鍛え抜かれた勇者たち」に阪急をまとめ上げたその手腕は今もってプロ野球ファンの記憶にある。

チーム作りの面では勝っている時に手を入れる勇気があり、いわゆる「森本トレード」などで新陳代謝を図るしたたかさを見せた。 

またメディア対応のうまさでも知られた。担当記者の顔を早く覚えるため、記者受けは抜群。記者の社歴や趣味関心まで記憶しており、雑談の話題にしたという。

上田氏の監督としての全盛期はいわゆる「人気のセ、実力のパ」の時代。少しでもパ・リーグを好意的に取り上げてもらおうとメディア対応に気を遣ったのだろう。

唯一弱点が見えたのが審判との関係。持ち前の記憶力があだとなり、審判の不手際に対して過去の当該審判の不手際をドッと突き付けた。審判団にとって最要注意人物だったらしい。

情熱、言葉、記憶力を駆使してパ・リーグの野球を充実させた上田利治氏。人気、実力の両面で輝いている現在のパ・リーグの基礎を築いた名監督だった。R.I.P.

〔参考文献〕

『監督たちの戦い[決定版]・上』浜田昭八著、日経ビジネス人文庫;2001年

著者の浜田氏による追悼文。単なる故人賛歌ではなく短いなかに監督業の複雑さをあぶりだしている。

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