Facebookで同名のアイテム紹介コラムを書いてきた。今回からこちらに引越し。
【My Favorite Things:Facebook時代まとめ】 - アフターアワーズ
日本に愛されなかった大指揮者
サー・ゲオルク・ショルティは日本のクラシック音楽ファンと相性の悪い指揮者。
まずボクシングのトレーナー風の見た目がまずかった。ヘルベルト・フォン・カラヤンの高級感、カルロス・クライバーの躍動的色気、カール・ベームとウォルフガング・ザワリッシュの伝統継承ムード、エフゲニー・ムラヴィンスキーやロヴロ・フォン・マタチッチの怪物風凄味を好んだ日本のクラシック音楽ファンにとってショルティの風貌は何の魅力もなかった。
次に日本人の愛する大陸ヨーロッパのオーケストラとしっくりいかなかったこと。ウィーンフィルハーモニー管弦楽団とは2度来日公演したが、聴衆の反応はベームの熱狂とは雲泥の差。録音もたくさん行ったが記録物としての価値を有する「指環」以外はやはりベーム、カラヤン、クライバーによるものほどの評価は得られずじまい。そしてベルリンフィルハーモニー管弦楽団やコンセルトヘボウ管弦楽団との数少ない録音はお互いにとって不幸な内容で日本の市場からすぐ消えた。結局ショルティは日本に固定ファンの多い三楽団との録音に決定打がなかったので一段低い指揮者とみなされた。
また22年間音楽監督を務めた(ショルティの自伝によれば「音楽人生で最も幸福な時間」)シカゴ交響楽団に対する日本の聴衆の評価がブラスセクションの威力ばかりに注目し、弦の緻密なアンサンブルや木管楽器の音色の多様性はスルーしたので「アメリカの楽団をバリバリ鳴らしている」というイメイジが根強く残った。
そして一部の評論家による「無機的」という事実無根の印象批評が正当な評価を妨げた。ショルティの形作る音楽は引き締められた骨格を背景にリズムが生き生きと脈動し、滑らかに進行する。確かに朝比奈隆のように主旋律をエモエモしく歌わせるということはない。だが例えばブラームスの交響曲第3番の第2楽章においては暖色系の柔らかい質感を出しているし、メンデルスゾーンのスコットランド交響曲(シカゴ交響楽団)での明暗硬軟の使い分けなど実に細やか。「無機的」と書いた人間はちゃんと聴いていないか耳が悪いかのどちらか。
ダメ押しは日本でオペラを指揮する機会がなかったこと。カラヤンもそうだがオペラ指揮者の面を日本人に見せなかったので受容が大きく歪んだ。
ショルティの美質が凝縮された2つの「薔薇の騎士」
1985年、ショルティはコヴェントガーデン歌劇場デビュー25周年記念としてリヒャルト・シュトラウスの楽劇「薔薇の騎士」を指揮。公演のライヴ収録映像はソフト化されている。なお25年前(1960年)の元帥夫人役はシュヴァルツコップ、初日の批評を見た彼女は2度とロンドンの舞台に立たなかったそうだ。
四半世紀の時を経て迎えた元帥夫人はキリ・テ・カナワ。品がいい立ち姿、目の奥に色気の宿る演じ方が見事。ハウエルズのオクタヴィアンは身のこなしがエレガントで程よい軽さ。おなじみボニーのゾフィーとの組み合わせも上々。
当時73歳のショルティの音楽運びはリズムがシュッと刻まれ、流麗。やや薄手で音色もあっさり系のオーケストラを牽引し、動と静のコントラストを鮮明に描き出す。
演出は「マラソンマン」などで知られる映画監督のジョン・シュレジンジャー。舞台は19世紀の設定で変わったところはないが暗みを生かす見せ方に独自性がある。
こういう上演だと作品の持つ聴き手の想像を呼び覚ます力が発揮され、色々想い巡らす楽しみがある。昨今流行りの性的要素を強調するやらかし系の演出だと演出家の意図を目で追いかけるのに忙しく、オーケストラや歌唱はじっくり聴けない。しかも大体指揮も歌もスカスカ。結局珍奇な演出が増えたのは音楽で心理の綾をあぶり出せる指揮者、歌手が絶滅し、どうやって客を呼ぶかという文脈だろう(大陸ヨーロッパには20世紀初頭から演劇の手法に倣った前衛的オペラ演出の歴史はあるが)。バカバカしい話。
CDで聴けるショルティ指揮の「薔薇の騎士」は1969年にウィーンフィルとのセッション録音がある。日本で長年等閑視された音源だが2017年刊行の村上春樹の小説に出てきたとかで急に関心を集めた。アホらしい。
クレスパンの元帥夫人、ミントンのオクタヴィアン、ドナートのゾフィーいずれも芯のある美声。声の演技力全開のユングヴィルトのオックスがいやらしい。家主にデルモータ、歌手役はパヴァロッティと往年のデッカらしい遊びもある。上記コヴェントガーデンのオクタヴィアンのハウエルズがアンニーナ役で出演。
ショルティはウィーンフィルをあえて辛口に響かせ、リズムのキレが鋭い。その隙間からにじむオーケストラの官能美が音楽の陰影を深める。