アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

張本勲の原爆の記憶

戦後72年なお残る原爆の影

2017年8月14日のNHK総合「ニュースウォッチ9」で東京都にある被爆者相談所を取り上げていた。高齢となり健康不安におびえるひと、長年逡巡した末に原爆症の認定を受けるひとなど悩める被爆者たちの声とそれを聞く相談員が描かれた。被爆から70余年を経ても消えない傷痕に苦しむひとの姿に心が痛んだ。

最多安打バッターが幼き日に味わった恐怖と悲しみ

思い出したのはプロ野球選手の張本勲氏(1940-)が2009年に読売新聞のインタビューで語った被爆体験。少し長いが引用する。

「1945年8月6日、5歳の私は、広島氏の段原新町で、長屋のような家に住んでいました。

午前8時15分。母と2番目の姉と一緒に家にいました。原爆が落ちた時は、本当にピカーッと光って、ドーンという感じでした。(中略)その時、母は、姉と私の上に覆いかぶさってくれたようです。目を開けると、赤いものが見えたことを覚えています。後で聞くと、母の体に砕けたガラスの破片のようなものが刺さり、服に血がついていたんですね。《すぐに逃げなさい》と言われ、姉に手を握られ、近くのぶどう畑まで避難しました。

今でも、忘れられない光景があります。人々のうめき声と叫び声です。目の前で何人もの人が熱さを逃れようと、川に飛び込んでいました。忘れろと言われても忘れられるものではありません。

父と兄は無事でした。しかし、勤労奉仕で外出していた小学生の上の姉は行方不明となり、数日後、大やけどを負った姿で、タンカで家に運ばれてきました。背が高く、私にとっては自慢の姉でした。友達には、《勲ちゃん、きれいなお姉さんがいていいね》と言われたこともあります。

被害者が多く、診察してくれる医者もいなければ、薬もありません。看病した母にとって、徐々に弱っていくのを目の前で見ているわけですから、たまったものではなかったでしょう。胸をたたいて、悲しみに耐えていました。私は、姉が亡くなった日を覚えていないんです。物心ついてから、ゆっくり思い返すと、朝方、母が大きな声で泣いていた時に、姉は亡くなったんだろうと想像しています。」

そして張本氏はこう続ける。

「4年前から、自分が被爆していたことを積極的に話すようになりました。なぜ、そうなったというと、若者たちが戦争のことをあまりにも知らないことに気づいたからです。私たちが今、平和に暮らしていけるのは、原爆で死んでいった人々の犠牲があったからこそです。

今でも1年に1回、健康診断をするたびに、《何もなければいい》と原爆症への不安におびえています。68歳になっても、被爆の恐怖を引きずっているんです。私の中で、戦争はまだ、終わっていません。」

(2009年1月24日、読売新聞朝刊11面「時代の証言者:最多安打 張本勲」より。張本氏は2015年にも読売新聞のインタビューで被爆体験を語った)

何度読んでも最後のパラグラフには胸が詰まる。張本氏の仰る通り、不幸な戦争の結果に身をささげた人々の上に現在の日本と私たちの生活は築かれている。そのことを折にふれて思い出すことは日本に生きる人間の務めだ。