アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

冷めた眼と厚い情【星野仙一氏逝去】

1月4日に70歳で逝去した星野仙一氏は「巨人」に特別な思いを抱き続ける野球人生だった。
現役時代は巨人キラーとして活躍。「燃える男」のイメイジを纏いながら、実は緩い球を効果的に交える冷静巧妙な投球でONのタイミングを狂わせた。通算146勝のうち35勝(31敗)が巨人戦だったのは単に燃えていただけではなく、氏の芝居っ気が最もうまく発揮される場だったからだろう。
引退後解説者・キャスターに転じてからは美声で「マダムキラー」と持て囃された。その中で川上哲治さんや廣岡達朗などの巨人OBに接近、巨人の強さの秘密を吸収しようとした。ドラフト指名の約束を破られた恨みなどどこへやら、川上さんの運転手役をかって出て車中で話し込み、監督就任後は川上さんと同じ77をつける傾倒ぶりだった。また南海監督で地を這いずった広瀬叔功氏とも近しくなり、「負ける監督」の苦しさまで学んだ。ネット裏の時間をこれほど周到に監督就任までの準備に活用する人物は殆どいない。
星野氏本人はNHK教育のテレビ講演で現役時代の監督のうち、水原茂さんと与那嶺要さんから大きな影響を受けたと語った。ともに巨人OBで意に反して巨人から追われた過去を持つ。星野氏と響き合う要素があったのは間違いない。特に日系2世で日本に「併殺崩し」を持ち込んだ与那嶺さんの「(アメリカの)合理性と(日本の)浪花節」のハンドリングは監督時代に応用した。
ドラゴンズ監督に就いた星野氏は早々と巨人を破ってセ・リーグ優勝。当時の王貞治巨人監督を事実上の解任に追いやった。そして充電後の2次政権では長嶋巨人、タイガースとイーグルスの監督時代は原巨人を倒してリーグ優勝もしくは日本一に輝いた。
現役時代同様「闘将」イメイジを前面に出す一方、気配りや情の厚さでも知られた。尖った選手を気持ちよく働かせる術は選手を自邸に招いて督励した与那嶺さんから学んだ要素。
補強やメディアへの根回しなどグラウンド外での周到さ、信頼した選手は使い続ける情が功を奏したペナントレースに対し、「この試合に勝つ」ための非情さが求められる短期決戦は川上さんの薫陶を受けたのに大の苦手。ホークス監督となった王貞治さんからは日本シリーズで2回お返しされた。しかしイーグルス監督3年目の2013年、田中将大投手を得たこと、佐藤義則投手コーチへの権限委譲の成功により3球団目にして悲願の日本一の座についた。しかも前述のように巨人を破っての栄冠。これが星野氏の野球人生のハイライトだった。
私にとって星野氏は王貞治ホークス会長、浜田昭八氏(元日経運動部長、『監督たちの戦い』著者)とともに野球への興味を呼び覚ましてくれた「恩人」。星野氏の二面性にひかれたことがそれまで何となく見ていた野球が大切な存在になるきっかけだった。
特定の投手の集中起用など旧タイプの「名将、知将」から受け継いだ欠点はあったが野球ファンの心をとらえる魅力を生涯放ち続けた。殿堂入りできて本当に良かったと思う。R.I.P.f:id:choku_tn:20180106231134j:plainf:id:choku_tn:20180106231216j:plainf:id:choku_tn:20180106231254j:plainf:id:choku_tn:20180106231334j:plain
〈参考文献〉浜田昭八『監督たちの戦い 決定版』上・下(日経ビジネス人文庫;2001年)