アフターアワーズ

山椒系ちょくの切り抜き帖

ジェラルド・ジャーヴィスの面影【名コンサートマスター、日本との縁】

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美しいハーモニーで聴かせる。響きの切り返しの硬さがこの指揮者の欠点だったがジェラルド・ジャーヴィスがリードする都響はしなやかに動く。第2部前半の深い翳、後半の清澄な盛り上がりは今もって高い説得力。#若杉弘 #東京都交響楽団 #フォンテック #マーラーチクルス #マーラー #交響曲第8番 #千人の交響曲 #1991年 #ライヴ録音 #サントリーホール #cd #クラシック音楽 #佐藤しのぶhttps://www.instagram.com/p/BrIHfsahuAA/
エッジの鋭い響きから放たれる透明で儚い色彩。声楽との呼応が繊細。ジャーヴィスのリードする弦がテンポ変化をうまく流れに乗せる。管も健闘。#若杉弘 #マーラーチクルス #マーラー #大地の歌 #サントリーホール #ジェラルドジャーヴィス #伊原直子 #田代誠 #クラシック音楽 #ライヴ録音 #フォンテック #cd #東京都交響楽団 #1991年
1980年代後半から1990年代前半に大阪フィルや東京都交響楽団コンサートマスターを務めたカナダのヴァイオリニスト、ジェラルド・ジャーヴィス(1930-1996)。
若き日はロンドン交響楽団などに在籍、友人のネヴィル・マリナーが結成したアカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズの創設メンバーでもあった。その後ボーンマス交響楽団(ちょうどシルヴェストリが常任指揮者だった)を経て1973年、故郷カナダのヴァンクーヴァー交響楽団コンサートマスターに就く。当時の音楽監督秋山和慶のもとでジャーヴィスは力量を発揮、「楽団の顔」とまで言われた。ところが1985年に秋山が退任、後を襲ったルドルフ・バルシャイジャーヴィスは対立し、結局ジャーヴィスが楽団を去った。
ICON: コンスタンティン・シルヴェストリ
それを受けて当時大阪フィルの首席指揮者だった秋山は1987年、ジャーヴィスを大阪フィルのコンサートマスターに招く。3年間務めた後、ジャーヴィス東京都交響楽団若杉弘音楽監督・首席指揮者)のコンサートマスターに転じる。並行して武蔵野音楽大学で教鞭もとった。
在任中、畏友マリナーの都響客演が実現。当初消極的だったマリナーは「ジャーヴィスがいるなら」と翻意したという。それから程なくジャーヴィスはガンのため病床につき、1996年に逝去した。
若杉 弘(指揮)、東京都交響楽団/R.シュトラウス: 交響詩 《ドン・ファン》
若杉 弘(指揮)、東京都交響楽団/マーラー: 交響曲第8番「千人の交響曲」
若杉 弘(指揮)、東京都交響楽団/マーラー: 「大地の歌」
モントゥー、ボールトなどの巨匠を見てきたジャーヴィスがそのやや早い晩年、思わぬきっかけから日本のオーケストラに来たのは幸いだった。彼以外にもヒューブナー、ポスピーシル、ノーランなど過去日本のオーケストラに在籍した海外のオーケストラメンバーは結構いるし、現在は元WPhのキュッヒルNHK交響楽団の客員コンサートマスタープロ野球でお金のかかるFA選手補強や大監督招聘ではなく辣腕コーチを迎えてチームが強くするやり方と同様、世界の名門楽団でもまれた楽団員を呼ぶことは下手な有名指揮者招聘よりオーケストラにプラスの効果をもたらしてきた。また先日亡くなったハープのヨーゼフ・モルナールは1950年代にウィーンから招かれるとそのまま定住、日本での当該楽器の普及に決定的役割を果たした。このように「招聘団員」の日本楽壇に対する貢献は大きく厚いもの。しっかり記憶、記録していく必要がある。
大阪フィル時代のジャーヴィス

朝比奈隆=大阪フィル「第九」1987/12/19

朝比奈隆=大阪フィル アルプス交響曲 1988

朝比奈隆=大阪フィル ブルックナー交響曲第8番 1989/9/8

東京都交響楽団時代のジャーヴィス

Haydn;Symphony#44 H.Wakasugi/Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
〔参考リンク〕
https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/gerald-jarvis-emc