2020年4月25日、本来なら元プロ野球監督(大毎/阪急/近鉄)の西本幸雄さん(1920年4月25日~2011年11月25日)の生誕100年記念試合が開催予定だった。残念ながらプロ野球の開幕延期により中止となったがこの記念日に寄せて生前日本経済新聞の名物コーナー「私の履歴書」で残した半生記の内容を中心にその人生と業績を振り返りたい。
- はじめに
- 情熱と先進性
- キャンプでサーキットトレーニングを導入
- 驚きの「信任投票事件」
- 金の卵を生かした育成術
- 山田、加藤、福本をどう成長させたか
- 登用したコーチから後の名将が
- 大胆な人事と行動で道を切り開く
- おわりに
はじめに
西本幸雄さんが「私の履歴書」に登場したのは1992年8月。当時71歳、ユニフォームを脱いで10年余りたち、関西テレビの解説者を務めていた。1988年には野球殿堂入りを果たし、いわば功成り名遂げた身として人生を振り返った内容と言える。
冒頭はこんな記述から。
私は和歌山中学で1年間だけラグビー部に所属し、体をぶつけ合うこの競技のおもしろさを知った。ラグビー部を退部して、中学4年の時から、野球と本格的に取り組んだ。野球は間のあるスポーツだ。息つく間もなく展開するラグビーと違って、1プレーごと、1球ごとに間が生じる。
だから退屈で、おもしろくないかというと、これが決してそうではない。間があるから考えるし、邪念が入る事もある。そこに野球の難しさがあるし、おもしろさもある。
中学、大学、ノンプロ、プロ野球を通じて、このスポーツの魅力にとりつかれてきた。(中略)野球は自分がプレーをしてもおもしろいが、コーチ、監督として参加しても、奥が深い。チームという人間の集合体が、苦しい鍛錬の時期を乗り越えると、上昇の機運といったものが肌で感じられるようになる。この時の楽しさは、何物にも代えがたい。
野球に限らず、鍛錬は時間をかけて、同じ事を繰り返してやらねばならない。どれだけ熱心にやっても、思うように成果が上がらぬ事がある。どうしてこんな事をやらなければいけないのかと、くじけそうになる。
私はあまりいい選手ではなかった。この程度の事しかできないかと、力の限界を何度も感じた。しかし、チームをあずかっている時は、限界というものを感じなかった。壁に突き当たっても、人と人との組み合わせを変えたりする事で、抜け出す道はあると思った。
野球の魅力と難しさを端的に表現していると思う。野村克也さんの書くものより血と汗のにおいがするのは「熱血手作り野球」と呼ばれた西本さんらしい。その特徴を3つの視点からひも解いてみる。
情熱と先進性
キャンプでサーキットトレーニングを導入
西本さんは立教大学、兵役を挟んでノンプロの別府星野組などを経て30歳で毎日オリオンズの内野手としてプロ入り、1950年から1955年まで6シーズンプレーした。そのため選手時代の実績に特筆するものはない。しかしアマチュアでの豊かな経験が評価され、指導者の道が開けた。例えば立教大学時代から既に後の名将の片鱗が覗える。
主将で監督になった私は、練習にアクセントをつけるようにした。悲壮感をただよわせて、体力を消耗するだけではなく、やるからには効果が上がるような練習をしたかった。基礎体力をつける時期と、リーグ戦が近づいたときとでは、おのずから練習内容は違った。1週間の中でも、練習に強弱の差をつけた。
別府星野組で選手兼監督をした時には選手の給料のやりくり、興行師と招待試合のギャラの交渉まで担った。また毎日選手時代は1950年の初代パ・リーグ優勝・日本一に輝いた湯浅禎夫監督の「佐藤荒巻ライン」と呼ばれた継投策、 足を使った攻撃など当時としてはモダンな戦法の采配をつぶさに観察した。引退後西本さんは2軍監督に就き、厳しい環境のなかでひとのやる気を伸ばし、育てる難しさを体験する。途中球団合併で「毎日」が「大毎」と変わり、1軍コーチを経て1960年に1軍監督の座についた。そして1年目でパ・リーグ優勝するが三原脩監督率いる大洋と対戦した日本シリーズは第2戦のスクイズ失敗が響いて流れをつかめないままストレート負けし、更迭されてしまう。この「短期決戦に弱い」一面は後々まで西本さんについて回った。
さて1年間の解説者生活を経て西本さんは1962年、阪急の2軍コーチに迎えられ、翌1963年には早くも1軍監督となった。その年は最下位、選手の体力不足を痛感したことから翌年のキャンプで筋力トレーニングを取り入れる。
(最下位は)やむを得ないと思った。 選手に1年間をフルに戦う体力がないのだ。まず根本的に、体力から鍛えなければならないと感じた。
今でこそ各球団の間で、筋力トレーニングをするのは常識となっている。だが、当時は器具を使ったサーキットトレーニングをしている球団は、どこにもなかった。昭和39年の高知キャンプでは、高知市教委体育課長で陸連強化委員だった中川善介さんに、筋力トレの指導をお願いした。
器具といっても、最近の何千万円もするものではない。鉄アレイ、バーベルなど、簡単なものだった。ところが選手は「ボディービルをやりにきたのではない。野球の練習をしにきたのだ」と、拒絶反応を示した。特に、投手たちは、肩に余計な筋肉がつくからと、頑強に拒否した。
サーキットは何クール化のセットになっていて、一定の時間内にやらないと、効果がない。ところが、気乗りせずにやると、時間がかかるばかり。背筋を真っすぐに立てて上げなければならない器具を、いい加減な格好で扱う。やむなくコーチ陣がつきっきりで、およそプロらしからぬ、強制という形をとってやらせた。
1ヶ月もやると、体力はついてきた。きつく感じていた練習に耐えられるようになってきた。やっと選手が、筋力トレの効果を認めるようになった。それと同時に、練習というものは、つらくて苦しいものばかりでないと、かなりの選手が感じるようになってきた。
基礎体力重視、強弱のアクセント、単に身体を痛めつけるより実効性を重んじる・・・立教時代からの一貫した姿勢が反映されている。こうした取り組みが功を奏し、1964年は「本当に強くなって得た成績だとは思わない」(西本さん)が阪急は2位に浮上した。
また1966年の冬には野手強化のため当時例のなかった少人数での練習を行い、後に主力となる森本潔、阪本敏三、長池徳二の成長に繋げた。
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