アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

生誕100年、西本幸雄さんの「私の履歴書」【「育てて」「勝てる」稀有な名将】

2020年4月25日、本来なら元プロ野球監督(大毎/阪急/近鉄)の西本幸雄さん(1920年4月25日~2011年11月25日)の生誕100年記念試合が開催予定だった。残念ながらプロ野球の開幕延期により中止となったがこの記念日に寄せて生前日本経済新聞の名物コーナー「私の履歴書」で残した半生記の内容を中心にその人生と業績を振り返りたい。

https://www.instagram.com/p/BgG6KNgnAPE/

Tadashi Nakagawa on Instagram: “野球を深掘りする楽しみは人間集団の心の問題の不可思議さが感じられること。3冊はそれをリアルに検証したもの。男同士の関係が一度壊れるといかに厄介かを教えてくれる。 #プロ野球 #王貞治 #長嶋茂雄 #監督 #嫉妬 #読書 #人間関係 #日経ビジネス人文庫 #野球のバイブル…”

  • はじめに
  • 情熱と先進性
    • キャンプでサーキットトレーニングを導入
    • 驚きの「信任投票事件」
  • 金の卵を生かした育成術
    • 山田、加藤、福本をどう成長させたか
    • 登用したコーチから後の名将が
  • 大胆な人事と行動で道を切り開く
  • おわりに

はじめに

西本幸雄さんが「私の履歴書」に登場したのは1992年8月。当時71歳、ユニフォームを脱いで10年余りたち、関西テレビの解説者を務めていた。1988年には野球殿堂入りを果たし、いわば功成り名遂げた身として人生を振り返った内容と言える。

冒頭はこんな記述から。

私は和歌山中学で1年間だけラグビー部に所属し、体をぶつけ合うこの競技のおもしろさを知った。ラグビー部を退部して、中学4年の時から、野球と本格的に取り組んだ。野球は間のあるスポーツだ。息つく間もなく展開するラグビーと違って、1プレーごと、1球ごとに間が生じる。

だから退屈で、おもしろくないかというと、これが決してそうではない。間があるから考えるし、邪念が入る事もある。そこに野球の難しさがあるし、おもしろさもある。

中学、大学、ノンプロ、プロ野球を通じて、このスポーツの魅力にとりつかれてきた。(中略)野球は自分がプレーをしてもおもしろいが、コーチ、監督として参加しても、奥が深い。チームという人間の集合体が、苦しい鍛錬の時期を乗り越えると、上昇の機運といったものが肌で感じられるようになる。この時の楽しさは、何物にも代えがたい。

野球に限らず、鍛錬は時間をかけて、同じ事を繰り返してやらねばならない。どれだけ熱心にやっても、思うように成果が上がらぬ事がある。どうしてこんな事をやらなければいけないのかと、くじけそうになる。

私はあまりいい選手ではなかった。この程度の事しかできないかと、力の限界を何度も感じた。しかし、チームをあずかっている時は、限界というものを感じなかった。壁に突き当たっても、人と人との組み合わせを変えたりする事で、抜け出す道はあると思った。

野球の魅力と難しさを端的に表現していると思う。野村克也さんの書くものより血と汗のにおいがするのは「熱血手作り野球」と呼ばれた西本さんらしい。その特徴を3つの視点からひも解いてみる。 

情熱と先進性

キャンプでサーキットトレーニングを導入

西本さんは立教大学、兵役を挟んでノンプロの別府星野組などを経て30歳で毎日オリオンズ内野手としてプロ入り、1950年から1955年まで6シーズンプレーした。そのため選手時代の実績に特筆するものはない。しかしアマチュアでの豊かな経験が評価され、指導者の道が開けた。例えば立教大学時代から既に後の名将の片鱗が覗える。

主将で監督になった私は、練習にアクセントをつけるようにした。悲壮感をただよわせて、体力を消耗するだけではなく、やるからには効果が上がるような練習をしたかった。基礎体力をつける時期と、リーグ戦が近づいたときとでは、おのずから練習内容は違った。1週間の中でも、練習に強弱の差をつけた。

別府星野組で選手兼監督をした時には選手の給料のやりくり、興行師と招待試合のギャラの交渉まで担った。また毎日選手時代は1950年の初代パ・リーグ優勝・日本一に輝いた湯浅禎夫監督の「佐藤荒巻ライン」と呼ばれた継投策、 足を使った攻撃など当時としてはモダンな戦法の采配をつぶさに観察した。引退後西本さんは2軍監督に就き、厳しい環境のなかでひとのやる気を伸ばし、育てる難しさを体験する。途中球団合併で「毎日」が「大毎」と変わり、1軍コーチを経て1960年に1軍監督の座についた。そして1年目でパ・リーグ優勝するが三原脩監督率いる大洋と対戦した日本シリーズは第2戦のスクイズ失敗が響いて流れをつかめないままストレート負けし、更迭されてしまう。この「短期決戦に弱い」一面は後々まで西本さんについて回った。

さて1年間の解説者生活を経て西本さんは1962年、阪急の2軍コーチに迎えられ、翌1963年には早くも1軍監督となった。その年は最下位、選手の体力不足を痛感したことから翌年のキャンプで筋力トレーニングを取り入れる。

(最下位は)やむを得ないと思った。 選手に1年間をフルに戦う体力がないのだ。まず根本的に、体力から鍛えなければならないと感じた。

今でこそ各球団の間で、筋力トレーニングをするのは常識となっている。だが、当時は器具を使ったサーキットトレーニングをしている球団は、どこにもなかった。昭和39年の高知キャンプでは、高知市教委体育課長で陸連強化委員だった中川善介さんに、筋力トレの指導をお願いした。

器具といっても、最近の何千万円もするものではない。鉄アレイ、バーベルなど、簡単なものだった。ところが選手は「ボディービルをやりにきたのではない。野球の練習をしにきたのだ」と、拒絶反応を示した。特に、投手たちは、肩に余計な筋肉がつくからと、頑強に拒否した。

サーキットは何クール化のセットになっていて、一定の時間内にやらないと、効果がない。ところが、気乗りせずにやると、時間がかかるばかり。背筋を真っすぐに立てて上げなければならない器具を、いい加減な格好で扱う。やむなくコーチ陣がつきっきりで、およそプロらしからぬ、強制という形をとってやらせた。

1ヶ月もやると、体力はついてきた。きつく感じていた練習に耐えられるようになってきた。やっと選手が、筋力トレの効果を認めるようになった。それと同時に、練習というものは、つらくて苦しいものばかりでないと、かなりの選手が感じるようになってきた。

基礎体力重視、強弱のアクセント、単に身体を痛めつけるより実効性を重んじる・・・立教時代からの一貫した姿勢が反映されている。こうした取り組みが功を奏し、1964年は「本当に強くなって得た成績だとは思わない」(西本さん)が阪急は2位に浮上した。

また1966年の冬には野手強化のため当時例のなかった少人数での練習を行い、後に主力となる森本潔、阪本敏三、長池徳二の成長に繋げた。

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追悼サー・スターリング・モス【大快挙と「騎士道」】

2020年4月12日に90歳で逝去した元レーシングドライバーのサー・スターリング・モスは1950年代から1960年代初頭にF1世界選手権スポーツカーレースで活躍。F1では66戦に出走してモナコグランプリ3勝を含む通算16勝、1955年~1958年の4年連続でドライバーズランキング2位となりながら1度もチャンピオンにはなれず、「無冠の帝王」と呼ばれた。この「無冠の帝王」という言葉はモスから広まった言葉だろう。

当時のF1マシンは殆ど上半身むき出しでシートベルトのないクルマが多かった。ヘルメットも現在工事現場でかぶっているものより簡単な形。モータースポーツが文字通り死と隣り合わせの時代をしたたかに生き抜き、晩年まで御意見番として活動したので1980年生まれの筆者でも雑誌「カーグラフィック」などのコラムで謦咳に接する機会はあり、いわゆる伝説のドライバーの中では身近に感じる存在だった。

多くの追悼記事の中でも中身の濃いのはこちら。

jp.motorsport.com

上記リンクで紹介された3レースにあえてもう一つモスの重要な勝利を付け加えるなら1955年F1イギリスグランプリ。チームメイトでワールドチャンピオンのファンジオの追撃を0.2秒差でかわしての優勝はモスにとってF1初優勝であり、同時に英国籍のドライバーによるF1初優勝だった。地元でF1初優勝だけでも快挙なのにその国のドライバーが果たしたF1における初優勝というおまけつき。「無冠の帝王」のモスが今なお英国で深く尊敬される所以である。

一方でこんな挿話もある。クリストファー・ヒルトンの『GRAND PRIX SHOW DOWN/SHOOT OUT(邦題:栄光的瞬間)』(ソニー・マガジンズ;1993年)によれば

イギリスのエイントリーのレースではさまざまな憶測が持ち上がった。メルセデスはチーム決定としてファンジオを2位、イギリス人のモスを優勝させると思われていたからだ。たしかにモスが優勝した。ただし、2位のファンジオとはわずか0秒2差であった。

モスが語る。

「私はイギリス人で初めてイギリスGPで優勝することができた。ファンジオが私を抜くことができなかったのかどうか、私に聞かないで欲しい。私は、ファンジオがその気になれば、私を抜くことができたと思っている」

モスの優勝は、チーム決定ではなく、ファンジオ自身がモスに敬意を払ったのだと誰もが思った。ファンジオ自身は黙して語らない。

1995年にファンジオが逝去した時にテレビ朝日系「カーグラフィックTV」で追悼特集が組まれ、モスのインタビューが紹介された。

(レース後にファンジオから)《かなわなかった》と言われた。ファンジオが私を追い越そうと思えばできたと思う。おそらく私にとってイギリスグランプリに優勝することがどれほど重要か理解してくれていたのだろう。

(ファンジオが譲ってくれたと考えているのかという問いに)そう感じる。彼は私に敬意を払ってくれた。私は彼を心から尊敬している。父親のようにさえ思うよ。

この挿話をひも解くたびに筆者の脳裏には「騎士道」という言葉が頭に浮かぶ。もちろん60年以上前のモータースポーツにも駆け引きはあったし、醜い確執も存在した。だが後年にあった表面上似た話、例えば1991年日本グランプリでアイルトン・セナがゲルハルト・ベルガーに勝利を譲ったシーン、とは明らかに異質の見えない何か、ある種の矜持を感じるのだ。

モスは前述の『GRAND PRIX SHOW DOWN/SHOOT OUT(邦題:栄光的瞬間)』の中でモータースポーツの核心を突くこんなコメントもしている。

レースはいちばんクリーンなスポーツだと言うひともいるが、歳をとるにつれて、そう断言する奴が嫌いになるね。だが、やはり、私もレースは他のスポーツに比べれば、純粋だと思うね。

英国のモータースポーツジャーナリスト、アラン・ヘンリーは名著『世界の有名な50レース1935-1987』(グランプリ出版;1991年)の中で1955年イギリスグランプリを「モス堂々の優勝」と称え、後年の『The Top 100 Formula One Drivers of All Time』(Icon Books Ltd;2008年)のなかで並みいるワールドチャンピオン経験者を退けてモスを第1位とした。これを自国びいきと断ずるはたやすい。しかしモスのドライバー人生、そして引退後も貫いた一本筋の通った佇まいを辿るとき、思わず頷く自分がいる。

八坂公洋のセカンドアルバム【日本・カナダの現代ピアノ音楽を色鮮やかに】

八坂公洋はトルドー現・カナダ首相、2015年ショパンコンクール第2位シャルル・リシャール=アムランなどを輩出したカナダの最高学府マギル大学出身のピアニスト。モントリオールを拠点に活動している。近現代の音楽や日本人作品の演奏をライフワークとし、2014年にはファーストアルバム「和のかたち~邦人作曲家ピアノ曲集」をリリースした。

https://www.kimihiroyasaka.com/

https://www.instagram.com/p/B7f4D-aphtv/

Tadashi Nakagawa on Instagram: “割合平明な、それでいて光を放ち、ことさら特殊に構えていないけど日本を感じる音楽が並ぶ。カプースチン風の網守作品は面白い。曲の配列が良く、とりわけ佐藤→武満→中村の繋がりは音楽的にうまく流れ、そこで武満の別次元性も伝わる。奏者のデジタル調虹色美をたたえた明晰でしなやかなタッチ、卓越したリズムの扱いが作品の再現に大きく貢献している。八坂公洋(@kimihiroyasakapiano…”

そして去る3月に6年ぶりのセカンドアルバムを送り出した。

こちらがイメイジビデオクリップ。青基調のビジュアルにひかれる。


八坂公洋「モザイク 近現代ピアノ曲集」Kimihiro Yasaka - Mosaïque (Album Trailer)

https://www.instagram.com/p/B-N5GospIxB/

Tadashi Nakagawa on Instagram: “888投稿。ピアニスト八坂公洋の2枚目のアルバムは日本とカナダの現代作曲家の音楽にドビュッシーの版画、中田喜直の「雨の夜に」を加えた内容。カナダの作品は八坂のために書かれたトイピアノが入る作品など多様。日本人作品ではフランス近現代の作りにシューマンを投影した小櫻秀樹の作品が面白い。八坂の澄んだ骨格に繊細な色彩が明滅するタッチは現代作品にピッタリで個々の楽曲の凹凸を明確に伝える。前回の日本人作品集同様、配列が巧みでドビュッシーの影響圏の大きさを実感できる。※敬称略…”

八坂の最大の魅力は色彩表現。ベタっと絵の具を塗るのでなく透明な枠組みの中に明暗陽陰を輝かせる。あたかもシャボン玉の表面に光が当たった時のように。この能力が各楽曲が持つ特徴を際立たせ、生まれたばかりの音楽を受容するための最良の材料を聴き手に示す。もちろんドビュッシー中田喜直といった歴史上に位置する作曲家の音楽に対するアプローチも巧みで収録作品同士がおのずから響き合い、アルバムとして一つの調和を形成している。

本アルバムに関して八坂公洋本人からコメントを頂戴したので最後に御紹介する。

八坂公洋からのコメント

アルバムに込めた思い

聴き手と現代音楽の距離を縮めたい気持ちがありました。楽曲同士の関係性、音の動きや持ち味のからまりをくさりのような感覚で連ねています。また先年他界した祖母と現在なお健在の祖母の2人の個人的な要素も入れました。ハーマンの「キミヒロのためのファンファーレ《瑠璃》」(健在の祖母の名前からきています)や裏ジャケットに写した貝にちりめんを合わせた細工(他界した祖母の作品)がそうです。同時代作品の間にドビュッシー中田喜直という歴史上の存在を交えた時代的要素に先述したパーソナルな要素を融合させたいと考えました。

制作にあたって

FACTORというカナダ在住もしくは出身のレコーディングアーティストを後援する財団の支援により制作できました。録音にあたっては存命の作曲家に関しては極力演奏を聴いてもらい、意見を求めるようにしています。意見交換できる面白さがあるのはもちろん、クラシック音楽は再現芸術ですので、演奏家の抱くイメージと作曲家のそれの間にあるひずみ、ずれを埋め理想的な音源を残したいですから。

個々の作品について申し上げると例えばゼミソンの「山・桜・花」は百人一首からインスピレーションを受けて作られた音楽でカナダ人の視点から見た日本という興味をそそられますし、前述のハーマンの「瑠璃」はトイピアノが入ります。タイトルの「モザイク」の通り様々な要素をひとつのアルバムに封じ込めました。

※文中敬称略

モザイク ~近現代ピアノ曲集 八坂公洋

八坂公洋/和のかたち-邦人作曲家ピアノ曲集-

水野蒼生の衝撃再び【ベートーヴェン「運命」に新たな装いを施す】

https://www.instagram.com/p/B99Z1O2pqGr/

クラシカルDJ水野蒼生(@aoi_mizuno_official )が放つ衝撃第2弾。今回はベートーヴェンの「運命」などを再創造。3/25リリース。https://open.spotify.com/album/2fkEuieEFUKU2u6iTOIcTP?si=LXBI0Q2GSgiY55yHhNPpWw#水野蒼生 #beethoven250 #beethoven2020 #beethoven #クラシカルdj #指揮者 #universalclassics #ユニバーサルクラシックス #クラシック音楽 #ベートーヴェン #spotify

指揮者・クラシカルDJとしてクラシック音楽の新たな可能性を問い続ける水野蒼生については幾度か取り上げてきた。

choku-tn.hatenablog.com

choku-tn.hatenablog.com

youtu.be

指揮者として研鑽を重ねる一方、クラシック音楽によるDJパフォーマンスを行い、名門ドイツグラモフォンからメジャーデビューアルバムリリースまで果たした活躍ぶりは注目を集め、2019年にはNHK-Eテレ「ドキュメントα」で取り上げられた。また定期的なラジオ出演、日本橋三越本店のイヴェントへの起用、横浜音祭りクロージングコンサート登場(2019年11月)など着実に活躍の場所を拡げている。2020年はナント(フランス)で毎年開催される本場の「ラ・フォル・ジュルネ」に出演した。

そしてベートーヴェン生誕250年の2020年。水野蒼生が放つセカンドアルバム(3月25日発売)は何とあの超有名曲「運命」(交響曲第5番)のアレンジ&リミックスをメインにした1枚。

youtu.be

ミュージックビデオも!ダンスとの斬新な響き合い。

youtu.be

誰もが知る名曲を分解、再創造することは才能と同時に相当の覚悟を要する。水野の芯にあるベートーヴェンに対する強い愛情、敬意が抜群のセンスと結びついたからこそ成しえた鮮やかな傑作。ぜひ身体ごと飛び込んで体験してほしい。

BEETHOVEN -Must It Be? It Still Must Be- 水野蒼生

ミレニアルズ-ウィ・ウィル・クラシック・ユー

ベートーヴェン: 交響曲全集(1986-1989)/ゲオルグ・ショルティ指揮、シカゴ交響楽団

www.universal-music.co.jp

ミツモトケイスケ写真展「INCENSE」【移ろう魅力】

今週のお題「うるう年」

4年に一度の2月29日、こちらを訪れた。

https://www.instagram.com/p/B9I_GSapIWO/

敬愛する写真家、ミツモトケイスケさんの個展「INCENSE」に。時と光の流れ、そこにある空気を可視化する才。学芸大学駅近くのmonogram(2F gallery)にて3/1 16:00まで。#写真家 #個展 #写真展 #学芸大学駅 #鷹番 #monogramgallery #incense #mrrnil #photographer #filmphotography #ミツモトケイスケ #keisukemitsumoto https://www.keisukemitsumoto.com/

優れた写真を形容する際にしばしば使われる言葉に「一瞬を切り取る」というフレーズがある。しかしミツモトケイスケの写真の核心は対極にある。見ていると写真の構図にある前の時間、その後の時間への想像を喚起する。色、光、影などが動く印象なのだ。この点が類似の構図を撮る人間との際立った違い、才能。今後一層撮る数を増やせば、練度も上がり、注目される存在になるはず。楽しみ。

www.keisukemitsumoto.com

骨の髄まで野球人だった【野村克也さんをしのぶ】

https://www.instagram.com/p/B8eHa7rpi6_/

選手として3,017試合に出場、監督通算1,565勝1,563敗76分け。現役、監督ともに3,000試合出場。これほど野球が好きなひとは空前絶後かも。幼くして父親を惨めな死にざまで失い、貧しさから這い上がるべくもがきにもがいて、プロ野球入り。そして苦労と探究を重ねた末、戦後初の三冠王を達成するなど日本プロ野球史に輝く正捕手兼スラッガーとなり、球界を代表する存在に登り詰めた。生い立ちからくる人間的屈折、欠点がしばしば目についたが解説者や監督の立場で三原脩さんの次に知的ゲームとしての野球の面白さを伝えた功績も大きい。1992年、1993年の日本シリーズにおける森祗晶氏との対決は毎試合テレビの前でドキドキした(当時ライオンズファン)。今なお心に残る。数多い著書のなかで本書は人生と野球の記述がうまくまとめられている。野村克也さんは2月11日に84歳で逝去。R.I.P. #野村克也 #私の履歴書 #日本経済新聞出版社 #自伝 #半生記 #日本プロ野球 #ホークス #スワローズ #イーグルス #タイガース #読書 #本の紹介 #おくやみ #訃報 #プロ野球 #ヤクルトスワローズ #阪神タイガース #楽天イーグルス

野球に対する情熱、執念は破格。地べたを這い回るような境遇(彼の父親は表向き「戦病死」だが実際は行軍中、空腹に堪えかねて地面に落ちていたものを食べたことによる食中毒という惨めなもの)から立ち上がり、日本プロ野球史上屈指のスラッガー、球界を代表する存在にのしあがった。
野球版まとめサイト的存在
引退後、解説者や監督の立場から知的ゲームとしての野球の面白さを伝えた功績は大きいが、野村さんのしたことでオリジナルは少ない。
まず造語と作戦においては三原脩さんが日本プロ野球史上No.1。「流線形打線」(2番強打者論)、「露払い先発」(いわゆるオープナー)、「緊急避難」(ワンポイント)、「スポーツは人間の闘争本能を遊戯化したもの」、「瀬戸内リーグ」などファームの本拠地を地方に移して独立興行する構想、ルールへの問題提起。申し訳ないが野村さんを遥かにしのぐ。ちなみに有名な「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は野村さんの造語じゃなく松浦静山の言葉。
また「ID野球」は野村さんがパイオニアというより鶴岡一人さんが始め、川上哲治-牧野茂ラインが進化させたデータ野球の現代的変容と捉えるのが適切。クイックモーションによる「福本封じ 」に初めて成功したのは堀内-森祗晶(当時は昌彦)のジャイアンツバッテリー。1971年日本シリーズを前にスポニチが「巨人の弱点教えます 森の肩」と報じたのを受け、堀内、森、土井の3選手が多摩川に集結。堀内はクイックモーション、森は正確な二塁送球、土井は囁き戦術で福本の足を封じると決め、練習を重ねた。初戦の初回で作戦は見事に成功し、足を「完封」した。
さらに日本における投手分業制も「8時半の男宮田征典さんを進言したジャイアンツ投手コーチ藤田元司さんや板東英二氏をセットアッパーで生かしたドラゴンズ投手コーチ近藤貞雄さんが元祖だろう。
野村さんの優れた点は大監督を観察してエッセンスを取り込み、自在に使えたところとメディア、とりわけテレビに対するアピール能力、それから後任にいい選手を残す姿勢。三原さんや近藤さんの場合、サービス精神はあったが活字主体の時代。川上さんはそもそも語ることを拒んだ。そして「名将知将」のなかには自身が勝つためにチームをはげ山にしちゃうタイプが結構いるが、逆に後のひとに選手を残したタイプが野村さん(と西本幸雄さん)。
その球歴を想うとき、できれば天国で鶴岡一人さんと和解してもらえたらと願う。
ねたみ、憤然から生まれた「野村節」
元々は対人恐怖症で口下手を自任していた野村さん。しかし空席だらけのスタンドに600号ホームランを打ち込み、まばらな拍手を受けた時、「月見草」に続けて「福本豊などパ・リーグのスターにも目を向けて欲しい」と言って以降、喋るようになった。ONの偉大さは誰よりもよく分かっている、メディアは更に付加価値をつけて取り上げる、他の名手がそれに埋没…が我慢ならず、少しでもという思いがあった。
1983年にテレビ朝日の解説者になった当初はボソボソした話し方が不評だった。しかし「投げ終わってから、こう投げればよかった、で解説と言えるだろうか」という野村さんの発言に興味をもったディレクターの稲田利之が言葉にプラスしてビジュアルを織り込めば面白くなると考えて導入したのが「野村スコープ」。スワローズの当時の主力打者、杉浦亨は中継を録画して帰宅後に見ていたという。
加えて評論家の草柳大蔵青木雨彦から「(講演では)野球のことだけ話しなさい」「(評論は)半分良いと思ってもらえたら勝ち」などの助言を受け、勉強にいそしみ、次第に率直で味のある弁舌が出るようになった。
ただ生い立ちからくる人間的屈折、欠点はしばしば目につき、タイガース時代の嶌村広報が指摘したように社会人としての付き合い下手ぶりは最後まで克服できなかった。
 
最も印象深い「野村節」は1997年の開幕前にニュースステーションに出演。久米宏氏が「ジャイアンツは《日本一(を目指した)補強》をしていますが?」と問われたのに対して発した一言。
「監督が森なら怖いけどね」
野村さんは「監督として対戦した人間のなかで先人なら川上(哲治)さん、西本(幸雄)さん、同じ世代だと森、上田(利治)は大監督。みんな人作りをした。私は足下にも及ばない。森が清原を甘やかしたのだけは解せないが」と著書で記した。個人的には常勝ライオンズを築き、配下から優勝監督を数多く出した森祗晶氏をより高く評価している。「森vs野村」の対決で2年を合わせると7勝7敗になる1992年、1993年の日本シリーズは密度が濃かった。
きっとこれからは「野村門下生」の優勝監督が増えていくに違いない。
【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)

気鋭のチェリスト三井静【名門ミュンヘン・フィルの一員に】

齋藤秀雄、堤剛から連なる歴史を見ても明らかなように日本は数々の個性的な名手を生んできたチェロ大国。近年は伊藤悠貴、岡本侑也、佐藤晴真など世界基準で真っ向勝負できる高い技術を持つ若手奏者が次々活躍中。今回取り上げる三井静(1992年生まれ)もそのひとりで、幾多の国際コンクール入賞を重ねた後に世界屈指のオーケストラ、ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団の正団員の座を勝ち取った。

2020年2月からの本格始動を控える三井静に曲折に富んだこれまでの歩みと今後への意欲、そして1月末から3月にかけて行うソリスト室内楽奏者としての日本での演奏会について書面インタビューを行った。以下その全文。見出しはブログ筆者によるもの。

挫折から始まった名門オーケストラへの道

僕は一流の演奏家になるためには遅めの15歳の時にチェリストを志す決断をしましたが、目指すと決めてからは他の学生に比べて勤勉でした。20歳までの5年間は思い出すと辛くなるほどコンクールに執着し努力して、最終的に目標だった日本音楽コンクールの入賞を果たしました。

ようやく自分の演奏に自信が持てた頃、NHK交響楽団のアカデミーのオーディションを受けてみないかという話を貰い、合格して入団。アカデミー生はN響の演奏会にエキストラとして出演できますが、現場に行ってみたら全く仕事が出来なくて愕然としました。今までやってきた長くても20分のソロの曲を膨大な時間をかけて用意するのと違ってオーケストラは二週間で2時間のプログラムを用意しないといけない。幼い頃から真剣にチェロに取り組んでいないと越えられない壁、当時の僕には厳しく完全に自信を失いました。ソリストとしての仕事とオーケストラの仕事でスケジュールがどんどん圧迫されて、なかなか上達しないまま気付いたら22歳。このままじゃ駄目だと思って留学を決意しました。

留学の目標は仕事をやっていける技術を手に入れて失った自信を取り戻す事。ライターが原稿を書くのにブラインドタッチが出来なければ話にならないように、チェロも呼吸をするように弾けなければ!そうすれば弾き方を考えなくていい分譜読みの時間も短縮出来るし、大人数でのアンサンブルにも対応する事ができると考えたのです。

ザルツブルクに留学した5年間、オーケストラはほとんど弾かずにソロの勉強だけをしました。毎日のようにフォームを変え、自分のもつ歌を自然体で表現しようと試行錯誤を繰り返していました。留学中に同世代のチェリストが日本でプロとしてオーケストラで弾き、自分より若い世代がソリストとして活躍しているのをSNSで見て日本に帰りたくなり、悔しさのあまり涙を流したのを覚えています。その実、前述のオーケストラに対するコンプレックスが僕の留学生活を支えてくれました。

勉強を続ける事4年。ルーマニアで開催されたジョルジュ・エネスコ国際コンクールという大きなコンクールに入賞する事も出来て、そろそろいけるかもしれないとミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団のアカデミーに入りました。しかし、それでもまだ少し早かったようでした。能力のなさに絶望したもののここまでの人生で、ある意味コンプレックスでしかなかった「オーケストラ」をミュンヘン・フィルが憧れに変えてくれました。125年の歴史を持つミュンヘン・フィルが培ってきたドイツ的な音と音楽監督であるゲルギエフの響きに対する天才的な耳が融合して演奏されるブルックナー。とんでもない世界観。正団員のオーディションがあることを知った時は迷わず申し込んでいました。このオーケストラで演奏していきたいと。

ワレリー・ゲルギエフ&ミュンヘン・フィル/ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」

ワレリー・ゲルギエフ&ミュンヘン・フィル/ブルックナー:交響曲第1番

ワレリー・ゲルギエフ&ミュンヘン・フィル/ブルックナー:交響曲第3番

ワレリー・ゲルギエフ(指揮) ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団/ブルックナー:交響曲第8番

ワレリー・ゲルギエフ(指揮) ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団/ブルックナー:交響曲第9番

ワレリー・ゲルギエフ(指揮) ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団/ブルックナー:交響曲第2番

ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団のオーディション

オーディションは2日に分けられていて、1日目は学生や僕のようなオーケストラアカデミー生を審査します。ガスタイクを本拠地に持っているミュンヘン・フィルだけあって、オーディションもガスタイクの大ホール。2000人ホールの観客席には審査員の団員30名程度。全ての審査にはオーケストラの伴奏員が付きますが、リハーサルなしなので弾き辛かったのを覚えています。

全部で三次試験まであり一、二次で八割方が落ち、三次でその半分程度に絞られ2日目に進みました。2日目は1日目の合格者と既に実績のあるオーケストラ奏者が加わり審査。本当は3回審査されるはずが、最初の審査で4人に絞られた関係で2回目の審査で合格者を決定しますとアナウンスが。2回目を弾き終わり審査員であったミュンヘン・フィルの団員が会議を経て投票します。1人だけの合格者に選ばれた時は信じられない気持ちでした。

自身の長所とこれから進化したい部分

演奏中には極限まで曲の良さを味わうようにしています。自分が想いを馳せ心を震わせたフレーズが音を通じて聴衆とシンクロするようなイメージを持って弾くので、もしそれが伝わっていたら長所と言えるかもしれません。進化させたい部分はその純度です。ヨー・ヨー・マさんの演奏会を聴いていて一度涙が出てしまった事があるのですが、周りを見渡したら何人もハンカチで目を拭っているという奇跡的な光景を目にしました。以来これを理想としています。

よく「背が高くてチェロが弾きやすいでしょ?」と言われる事がありますが、舞台映えとしては良いのかもしれませんがメリットを感じることは少ないです。僕は身体も硬く運動神経もないのでこの身体を扱うのにとても苦労しています。最近ようやく自分の腕の重みでチェロを弾けるようになってきたので、これからどんどん長所を発見できるかもしれません。楽しみです。

ミュンヘン・フィルの印象

印象としては天才集団です。皆さん本当に能力が高く本番での集中力は圧巻。やはり元音楽監督チェリビダッケの記憶は今でも強く残っていて、当時を知る団員さんからは逸話を沢山聞かせて貰えますし、ガスタイク内もチェリビダッケの写真だけ段違いに多く飾られています。ブルックナーの演奏からは団員さんが誇りをもっているのをひしひしと感じます。先に触れましたがこれから団員として音楽監督ゲルギエフさんと演奏していくのがとても楽しみです。 

創立125周年記念デラックスCDボックス<初回生産限定盤>/ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

ザ・ミュンヘン・イヤーズ<限定盤>セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

日本での演奏予定

1月29日にハイドンのチェロ協奏曲第1番を新宿文化センターでバッティストーニさん指揮、東京フィルハーモニー交響楽団と共演します。

2月5日には同世代の素晴らしい演奏家たちと鳥取とりぎん文化会館室内楽のコンサート。

2月29日には友人でもある指揮者の大井駿さん(2月の鳥取ではピアニストとして共演)に誘われて伊達管弦楽団ドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏します。

3月1日には埼玉県にあるギャラリーカフェ・ラルゴでフルリサイタルも。留学中は日本で演奏する機会が少なかったのでとてもワクワクしています。

※後半の2公演は新型コロナウィルス発生の影響で中止となった。

三井静プロフィール

ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団チェリスト

第9回泉の森ジュニアチェロコンクール金賞。

第20回日本クラシック音楽コンクール最高位。第80回日本音楽コンクール第3位。第15回東京音楽コンクール弦楽器部門第2位。エンリコ・マイナルディ・チェロコンクール(オーストリア)第1位。ジョルジュ・エネスコ国際コンクールチェロ部門において日本人初の入賞。

2010年から2013年まで(財)ヤマハ音楽振興会より、2013年から2015年まで日本演奏連盟より、2015年から2017年まで公益財団法人ロームミュージックファンデーションより奨学支援を受ける。2017年から2018年にはルイ・ヴィトン財団の奨学生に選ばれ"Classe d’Excellence de Violoncelle de Gautier Capuçon"に参加。演奏会などの様子がmediciTVにて配信されている。2018年から2019年まで文化庁の研修生としてザルツブルクに留学した。

室内楽やオーケストラの活動にも積極的に取り組み、ゴーティエ・カプソン、クレメンス・ハーゲン、五嶋みどり、徳永二男、篠崎史紀の各氏ら著名な演奏家室内楽で共演し、2011年から2012年までN響アカデミーに在籍。これまでにチェロを岩井雅音、毛利伯郎、ジョバンニ・ニョッキ、クレメンス・ハーゲンの各氏に師事。桐朋学園大学ソリストディプロマコースを経て、ザルツブルク・モーツァルテウム大学在学中にミュンヘンフィルハーモニー団員となる。

多忙な中、インタビューに応じて下さった三井静氏に心より感謝します。

※文中一部敬称略