アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

哲学者+音楽家の鼎談から再び想った【センス、知識、クラシック音楽】

7月18日のブログで哲学者・田代伶奈、指揮者・水野蒼生、ピアニスト・三好駿(順不同・敬称略)の鼎談

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について書いた(若い哲学者+若い音楽家の対話【O.E.Tの先にあるもの】 - アフターアワーズ)。この時は簡単な紹介にとどめたが示唆に富み、学ぶところ多かった内容なので改めて取り上げる。

驚愕する田代さんの知性

まず巻頭言。クラシック音楽の核心、言いかえれば魅力の粋が記されている。たくさん見て、読んで、聞いて、考えた結果、ここまで核心のみを抽出できるのだろうと言葉の背景にある知のボリュームを想像したら眩暈がするほど。
続いて「ブラームス」と「ズラームス」の話。私みたいなバカはブラームスの同時代の作曲家の名前を出して具体的に話すが、結局対話は萎む。田代さんは「ズラームス」の一言にまとめ、後に続く対話を膨らませる。その言語センスに敬服した。真に考えられるひと、知性のあるひとは瑣末なところで知識の引き出しは開けないのだ。知識はあっても知性のない私は話すことに説得力を持たせよう、相手に刺激を与えようと知識の引き出しを開けまくるが相手は「ウィキペディアに載っている話だ」と感じるのがオチ。
全体を通して田代さんの簡潔に本質を切り出す言葉の妙は冴え、これが2人の音楽家からもすっきりした言葉で思想を引き出した原動力。単なる言葉選びのテクニックではなく、地道な勉強を重ねて身につけた知性から発せられる言葉だからこそ短いなかに目の前の相手と読み手の想像、思考を膨らませる力がある。

専門用語に頼らず話せる水野さんと三好さんの言語センス

クラシック音楽について話す、書くときに陥りやすいのは専門用語に逃げること。広く社会に発信、なんていいながらクラシックマニア以外に通じない言葉を並べて、それを説明するための〔注〕がずらずら続くパターンは「クラシック関連記事、対談あるある」。要は説明、解説の語彙が乏しいのを専門用語で誤魔化しているだけ。私自身、誤魔化している自覚はないが無意識のうちにお茶を濁していたことに気付いて、恥ずかしく思った事例は数知れず。一方水野さん、三好さんは言語化しにくい内容でも平易にテンポ良く話す。普段から色々なことを考え、専門用語に流れないで表現する訓練ができているのだろう。田代さん同様、言葉の向こう側から厚い知の蓄積を感じた。「音楽は聴衆ありき。一人でも聴いてくれる人がいる限りは、僕は弾き続けるし、そういう気持ちが音楽家には必要」(三好さん)、「僕が命をかけてやっている音楽を知って欲しいし、そのために僕はクラシック音楽の入り口になりたい」(水野さん)という思いが、音楽にとどまらない知性を蓄える原動力かもしれない。2人の言葉から感じたのは聴衆を信じ、音楽を信じる心だ。

クラシック音楽の知識って何?

鼎談を読んだ後に考えたこと。時々「クラシック音楽、聴きたいけど(興味あるけど)、知識がなくて」という声を見聞きする。逆に言えばそのひとは「クラシック音楽を聴くには(興味を深めるには)知識が必要だ」と判断しているのだろう。

では「クラシック音楽の知識」とは何だろうか。楽器演奏の経験、スキルの有無は別として楽譜の読み方、作曲などの音楽理論音楽史全般、楽器の構造、演奏技術の成り立ち、指揮法、音響、録音・オーディオ関連、音源・映像の探し方や見極め方・・・まだまだあるかも。だがひとつはっきりしているのはクラシック音楽を聴くのにこれらは全く必要ない。かくいう私が上記の知識をほぼ持っていないのに何の不自由もなく過去22年間殆ど毎日クラシック音楽を聴いている。もし「クラシック音楽を聴くには知識が必要だ」と考えているひとがいらっしゃるのならそれは完全な誤解。

私は無理にクラシック音楽をみんなに聴いてもらおうとは思わない。しかしチケット代に関するブログ(クラシック音楽コンサートは高い?【若いひとにはむしろお得】 - アフターアワーズ)でも申し上げたが、クラシック音楽からひとを遠ざけかねない事実と異なる情報や誤解は正していきたい。