アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

My Favorite Things【朝比奈隆のマーラー:交響曲第8番】

1972年6月5日と6日、フェスティバルホール(大阪)で行われた大阪フィル第100回定期演奏会のライヴ録音。

別名「千人の交響曲」。本演奏では実際に千人以上の出演者がステージに上がった。元毎日新聞記者の白石裕史氏が1997年発行の『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』に寄せた随想(「1000人の交響曲」)が当時の雰囲気をよく伝えている。

私が毎日新聞記者時代、音楽の分野で最も長く付き合ったのは大阪フィルだった。通算15年くらいだろうか。その間、指揮者や団員たちとよく飲み、かつ足で書きまくった。その思い出の中で忘れ難いのは、定期演奏会第100回のマーラー「1000人の交響曲」である。

標題が1000人だからといって、必ずしも1000人出演せねばならぬ必要はないが、律儀というか勢いというか、1000人を少々突破してしまった。この辺がいかにも大阪的だ。そのお陰で、楽屋は不足し、合唱団は通路や奈落で着替え、トイレも「客用も使って下さい!」と係員が金切り声をあげる、という超過密ぶり。舞台に居並ぶのにも、10分以上かかっていた。勢揃いできると、朝比奈隆氏が舞台袖に現れ「割りに早かったな。わしゃ、半時間はかかると思とった」とおとぼけの軽口をたたき、事務局員が恭々しく差し出す指揮棒を手にして悠然と舞台に出て行った。役者である。

演奏が始まると、私は奈落に降り、舞台の底を見上げた。何しろ1000人もの体重が舞台にかかっている。一応補強はされていたが、間欠的にギシリと悲鳴をあげていて不気味だった。そんな風に舞台裏をほっつき歩いていたので、初日の演奏はろくに聞いていない。

終演後、阿部靖コンサートマスターに感想を尋ねると、疲れ切ったせいか言葉少ない。他方、野口幸助・事務局長は上機嫌で「今日は大フィルのお祭でんがな。お祭りは無事故で、賽銭が上がればよろし」と雄弁で、ケムに巻かれてしまった。これまた役者だった。

そう言えば、あの時代は士が雲集し、お祭やお祭騒ぎが多かった。ヨーロッパ演奏旅行、ベートーヴェン交響曲全集発売など、いつの間にか御輿を担がされていた。大阪フィルは大阪音楽界の、関西文化の亭々たる大樹だった。あの頃を思い出すと、懐しさとともに活力が湧いてくるのを覚えるのである。(音楽・舞踏ジャーナリスト・神戸学院女子短期大学教授)

大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』(大阪フィルハーモニー協会、1997年;pp.26)※表記は全て本文に従った。

演奏を冷静に聴けば電子オルガン(フェスティバルホールにはパイプオルガンは未設置。もっとも当時日本でパイプオルガンがある場所は教会を除けば極少数)の安っぽい音色、カタカナ発音の合唱、フレーズが作れず音色の潤いに欠ける管楽器など第1部中心に突っ込みどころ満載。しかし写真だとステージというよりホールの半分が埋まっているように見える出演者の数、しかもその殆どが作品の演奏自体初体験だったことを考えれば演奏が無事成立したのが奇跡。少なくとも指揮者、オーケストラ、声楽陣の全員が懸命に作品と向き合う様子は十分感じ取れる。第2部に入ると声楽陣の力みが取れてオーケストラとの意思疎通が幾分スムーズになり、水を打ったような静けさから雄大な響きが緊張感を保ちつつムクムクと出現する。そして「神秘の合唱」以降は全員が一気にまとまってエネルギーいっぱいの大団円。このラストだけでも一度聴く価値はあると思う。年代の割に耳当たりのいい音質。