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文化・社会トピック切抜き帖

中曾根康弘・元首相100歳【「反権威」で小澤征爾氏との縁も】

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物心ついて名前を知った最初の政治家の一人がいまだ存命というのは不思議な気持ち。堂々たる体躯。陣笠議員時代から大げさに天下国家を語り、外遊に精を出し、国際性のある国士のイメイジ構築に腐心した。

絶えず誇大な言葉で発信につとめ、中身(行動)は少しずつ後から入れていくのが中曾根流。

「戦後政治の総決算」は典型例。逆風の中の解散総選挙を乗り切る意図のアフォリズムだったがいつしか改革邁進の旗印にすり替わる。そして3公社民営化を成し遂げた。

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『政治と人生』に壮年期の思い出として挙げられた小澤征爾氏とのエピソードが興味深い。

小沢征爾氏を応援 

昭和37年(1962年)12月11日の新聞に、「N響、小沢氏指揮の演奏会を中止」という記事が出た。NHK交響楽団の一部の演奏家が、新進気鋭の小沢征爾君の指揮ぶりや人間性を不満として、演奏会をボイコットした事件である。

小沢氏とは因縁がある。30年(1955年)から私の郷里の高崎でつくられ、地方交響楽団のはしりとなった群馬フィルハーモニー交響楽団の指揮を、彼がとってくれたのである。混雑している汽車に乗って、たびたび高崎まで来てくれた。群響は全県下の小、中学校を巡回し、戦後の殺伐とした社会にあって、子どもたちに本物のバイオリンやクラリネットやチェロの音を聞かせてくれたのである。

加えて小沢君の父上の開作氏は、旧満州国の建国の頃、その草創の業に参加した民間有志である。途中で関東軍と喧嘩して、日本に帰ってきた。私は当時、お目にかかって満州国の実情を聞いていた。

私はこの演奏会ボイコット事件を、特権を保持しているNHKの楽団員の衆を頼んでの傲慢と思った。才能ある逸材の前途を挫折させてはいけないということで、「助ける会」を赤坂の料理屋、「金龍」で旗揚げした。集まったのは演出家の浅利慶太、音楽評論家の安倍寧、映画監督の勅使河原宏らの諸君である。「いやしくも徒党を組んで演奏を拒否するなどという態度は、芸術家のとるべきものではない」との非難が圧倒的で、「NHKの一部の思い上がりであり、これを糺すべきだ」との点で一致した。

どうしたら小沢征爾という芸術家が受けた打撃をそそぐことができるか、で議論は沸騰した。「新聞や週刊誌の評論で取り上げよう」との声もあったが、三浦甲子二君が「芸術には芸術を持って対抗せよ」と主張し、結局、「それなら日本フィルハーモニーのタクトを小沢君に振らせ、素敵な演奏で会場を満員にし、一矢を報いよう」ということになった。

世間の反響は、この事件を知っているだけにすさまじいものがあった。翌年1月、上野の東京文化会館における小沢君のチャイコフスキーの5番とベルリオーズの指揮は、実にダイナミックだった。彼の指揮棒がとまると、聴衆は立ち上がり、狂気のようになって拍手をした。小沢君も顔がクシャクシャになったが、それは決して汗のせいばかりではなかった。(pp.255-257)

※各種表記は原文のまま。原田三朗『オーケストラの人びと』(ちくまプリマーブックス)には、日本フィルとの演奏会のホールは日比谷公会堂、曲目はシューベルトの「未完成」とチャイコフスキーの5番と記されている。

小澤征爾/ベルリオーズ:幻想交響曲(1966年録音)

小澤征爾/チャイコフスキー:交響曲第5番(1968年)

錚々たる人物が思わず押し上げたくなる魅力が小澤氏にはあるのだろう。

また政治的狡猾さの陰で中曾根氏の政界外の若い人材に対する視線は基本的に温かった。

後年の『自省録』(2004年)の「あとがき」には名を知られる前の磯田道史氏(当時茨城大学准教授)への謝意が付されている。ジャンル問わず、才を見抜く慧眼は健在だった。