野球に対する情熱、執念は破格。地べたを這い回るような境遇(彼の父親は表向き「戦病死」だが実際は行軍中、空腹に堪えかねて地面に落ちていたものを食べたことによる食中毒という惨めなもの)から立ち上がり、日本プロ野球史上屈指のスラッガー、球界を代表する存在にのしあがった。
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引退後、解説者や監督の立場から知的ゲームとしての野球の面白さを伝えた功績は大きいが、野村さんのしたことでオリジナルは少ない。
まず造語と作戦においては三原脩さんが日本プロ野球史上No.1。「流線形打線」(2番強打者論)、「露払い先発」(いわゆるオープナー)、「緊急避難」(ワンポイント)、「スポーツは人間の闘争本能を遊戯化したもの」、「瀬戸内リーグ」などファームの本拠地を地方に移して独立興行する構想、ルールへの問題提起。申し訳ないが野村さんを遥かにしのぐ。ちなみに有名な「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は野村さんの造語じゃなく松浦静山の言葉。
また「ID野球」は野村さんがパイオニアというより鶴岡一人さんが始め、川上哲治-牧野茂ラインが進化させたデータ野球の現代的変容と捉えるのが適切。クイックモーションによる「福本封じ 」に初めて成功したのは堀内-森祗晶(当時は昌彦)のジャイアンツバッテリー。1971年日本シリーズを前にスポニチが「巨人の弱点教えます 森の肩」と報じたのを受け、堀内、森、土井の3選手が多摩川に集結。堀内はクイックモーション、森は正確な二塁送球、土井は囁き戦術で福本の足を封じると決め、練習を重ねた。初戦の初回で作戦は見事に成功し、足を「完封」した。
野村さんの優れた点は大監督を観察してエッセンスを取り込み、自在に使えたところとメディア、とりわけテレビに対するアピール能力、それから後任にいい選手を残す姿勢。三原さんや近藤さんの場合、サービス精神はあったが活字主体の時代。川上さんはそもそも語ることを拒んだ。そして「名将知将」のなかには自身が勝つためにチームをはげ山にしちゃうタイプが結構いるが、逆に後のひとに選手を残したタイプが野村さん(と西本幸雄さん)。
その球歴を想うとき、できれば天国で鶴岡一人さんと和解してもらえたらと願う。
ねたみ、憤然から生まれた「野村節」
元々は対人恐怖症で口下手を自任していた野村さん。しかし空席だらけのスタンドに600号ホームランを打ち込み、まばらな拍手を受けた時、「月見草」に続けて「福本豊などパ・リーグのスターにも目を向けて欲しい」と言って以降、喋るようになった。ONの偉大さは誰よりもよく分かっている、メディアは更に付加価値をつけて取り上げる、他の名手がそれに埋没…が我慢ならず、少しでもという思いがあった。
ただ生い立ちからくる人間的屈折、欠点はしばしば目につき、タイガース時代の嶌村広報が指摘したように社会人としての付き合い下手ぶりは最後まで克服できなかった。
「監督が森なら怖いけどね」
きっとこれからは「野村門下生」の優勝監督が増えていくに違いない。
【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)