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文化・社会トピック切抜き帖

骨の髄まで野球人だった【野村克也さんをしのぶ】

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選手として3,017試合に出場、監督通算1,565勝1,563敗76分け。現役、監督ともに3,000試合出場。これほど野球が好きなひとは空前絶後かも。幼くして父親を惨めな死にざまで失い、貧しさから這い上がるべくもがきにもがいて、プロ野球入り。そして苦労と探究を重ねた末、戦後初の三冠王を達成するなど日本プロ野球史に輝く正捕手兼スラッガーとなり、球界を代表する存在に登り詰めた。生い立ちからくる人間的屈折、欠点がしばしば目についたが解説者や監督の立場で三原脩さんの次に知的ゲームとしての野球の面白さを伝えた功績も大きい。1992年、1993年の日本シリーズにおける森祗晶氏との対決は毎試合テレビの前でドキドキした(当時ライオンズファン)。今なお心に残る。数多い著書のなかで本書は人生と野球の記述がうまくまとめられている。野村克也さんは2月11日に84歳で逝去。R.I.P. #野村克也 #私の履歴書 #日本経済新聞出版社 #自伝 #半生記 #日本プロ野球 #ホークス #スワローズ #イーグルス #タイガース #読書 #本の紹介 #おくやみ #訃報 #プロ野球 #ヤクルトスワローズ #阪神タイガース #楽天イーグルス

野球に対する情熱、執念は破格。地べたを這い回るような境遇(彼の父親は表向き「戦病死」だが実際は行軍中、空腹に堪えかねて地面に落ちていたものを食べたことによる食中毒という惨めなもの)から立ち上がり、日本プロ野球史上屈指のスラッガー、球界を代表する存在にのしあがった。
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引退後、解説者や監督の立場から知的ゲームとしての野球の面白さを伝えた功績は大きいが、野村さんのしたことでオリジナルは少ない。
まず造語と作戦においては三原脩さんが日本プロ野球史上No.1。「流線形打線」(2番強打者論)、「露払い先発」(いわゆるオープナー)、「緊急避難」(ワンポイント)、「スポーツは人間の闘争本能を遊戯化したもの」、「瀬戸内リーグ」などファームの本拠地を地方に移して独立興行する構想、ルールへの問題提起。申し訳ないが野村さんを遥かにしのぐ。ちなみに有名な「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は野村さんの造語じゃなく松浦静山の言葉。
また「ID野球」は野村さんがパイオニアというより鶴岡一人さんが始め、川上哲治-牧野茂ラインが進化させたデータ野球の現代的変容と捉えるのが適切。クイックモーションによる「福本封じ 」に初めて成功したのは堀内-森祗晶(当時は昌彦)のジャイアンツバッテリー。1971年日本シリーズを前にスポニチが「巨人の弱点教えます 森の肩」と報じたのを受け、堀内、森、土井の3選手が多摩川に集結。堀内はクイックモーション、森は正確な二塁送球、土井は囁き戦術で福本の足を封じると決め、練習を重ねた。初戦の初回で作戦は見事に成功し、足を「完封」した。
さらに日本における投手分業制も「8時半の男宮田征典さんを進言したジャイアンツ投手コーチ藤田元司さんや板東英二氏をセットアッパーで生かしたドラゴンズ投手コーチ近藤貞雄さんが元祖だろう。
野村さんの優れた点は大監督を観察してエッセンスを取り込み、自在に使えたところとメディア、とりわけテレビに対するアピール能力、それから後任にいい選手を残す姿勢。三原さんや近藤さんの場合、サービス精神はあったが活字主体の時代。川上さんはそもそも語ることを拒んだ。そして「名将知将」のなかには自身が勝つためにチームをはげ山にしちゃうタイプが結構いるが、逆に後のひとに選手を残したタイプが野村さん(と西本幸雄さん)。
その球歴を想うとき、できれば天国で鶴岡一人さんと和解してもらえたらと願う。
ねたみ、憤然から生まれた「野村節」
元々は対人恐怖症で口下手を自任していた野村さん。しかし空席だらけのスタンドに600号ホームランを打ち込み、まばらな拍手を受けた時、「月見草」に続けて「福本豊などパ・リーグのスターにも目を向けて欲しい」と言って以降、喋るようになった。ONの偉大さは誰よりもよく分かっている、メディアは更に付加価値をつけて取り上げる、他の名手がそれに埋没…が我慢ならず、少しでもという思いがあった。
1983年にテレビ朝日の解説者になった当初はボソボソした話し方が不評だった。しかし「投げ終わってから、こう投げればよかった、で解説と言えるだろうか」という野村さんの発言に興味をもったディレクターの稲田利之が言葉にプラスしてビジュアルを織り込めば面白くなると考えて導入したのが「野村スコープ」。スワローズの当時の主力打者、杉浦亨は中継を録画して帰宅後に見ていたという。
加えて評論家の草柳大蔵青木雨彦から「(講演では)野球のことだけ話しなさい」「(評論は)半分良いと思ってもらえたら勝ち」などの助言を受け、勉強にいそしみ、次第に率直で味のある弁舌が出るようになった。
ただ生い立ちからくる人間的屈折、欠点はしばしば目につき、タイガース時代の嶌村広報が指摘したように社会人としての付き合い下手ぶりは最後まで克服できなかった。
 
最も印象深い「野村節」は1997年の開幕前にニュースステーションに出演。久米宏氏が「ジャイアンツは《日本一(を目指した)補強》をしていますが?」と問われたのに対して発した一言。
「監督が森なら怖いけどね」
野村さんは「監督として対戦した人間のなかで先人なら川上(哲治)さん、西本(幸雄)さん、同じ世代だと森、上田(利治)は大監督。みんな人作りをした。私は足下にも及ばない。森が清原を甘やかしたのだけは解せないが」と著書で記した。個人的には常勝ライオンズを築き、配下から優勝監督を数多く出した森祗晶氏をより高く評価している。「森vs野村」の対決で2年を合わせると7勝7敗になる1992年、1993年の日本シリーズは密度が濃かった。
きっとこれからは「野村門下生」の優勝監督が増えていくに違いない。
【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)