アフターアワーズ

山椒系ちょくの切り抜き帖

追悼サー・スターリング・モス【大快挙と「騎士道」】

2020年4月12日に90歳で逝去した元レーシングドライバーのサー・スターリング・モスは1950年代から1960年代初頭にF1世界選手権スポーツカーレースで活躍。F1では66戦に出走してモナコグランプリ3勝を含む通算16勝、1955年~1958年の4年連続でドライバーズランキング2位となりながら1度もチャンピオンにはなれず、「無冠の帝王」と呼ばれた。この「無冠の帝王」という言葉はモスから広まった言葉だろう。

当時のF1マシンは殆ど上半身むき出しでシートベルトのないクルマが多かった。ヘルメットも現在工事現場でかぶっているものより簡単な形。モータースポーツが文字通り死と隣り合わせの時代をしたたかに生き抜き、晩年まで御意見番として活動したので1980年生まれの筆者でも雑誌「カーグラフィック」などのコラムで謦咳に接する機会はあり、いわゆる伝説のドライバーの中では身近に感じる存在だった。

多くの追悼記事の中でも中身の濃いのはこちら。

jp.motorsport.com

上記リンクで紹介された3レースにあえてもう一つモスの重要な勝利を付け加えるなら1955年F1イギリスグランプリ。チームメイトでワールドチャンピオンのファンジオの追撃を0.2秒差でかわしての優勝はモスにとってF1初優勝であり、同時に英国籍のドライバーによるF1初優勝だった。地元でF1初優勝だけでも快挙なのにその国のドライバーが果たしたF1における初優勝というおまけつき。「無冠の帝王」のモスが今なお英国で深く尊敬される所以である。

一方でこんな挿話もある。クリストファー・ヒルトンの『GRAND PRIX SHOW DOWN/SHOOT OUT(邦題:栄光的瞬間)』(ソニー・マガジンズ;1993年)によれば

イギリスのエイントリーのレースではさまざまな憶測が持ち上がった。メルセデスはチーム決定としてファンジオを2位、イギリス人のモスを優勝させると思われていたからだ。たしかにモスが優勝した。ただし、2位のファンジオとはわずか0秒2差であった。

モスが語る。

「私はイギリス人で初めてイギリスGPで優勝することができた。ファンジオが私を抜くことができなかったのかどうか、私に聞かないで欲しい。私は、ファンジオがその気になれば、私を抜くことができたと思っている」

モスの優勝は、チーム決定ではなく、ファンジオ自身がモスに敬意を払ったのだと誰もが思った。ファンジオ自身は黙して語らない。

1995年にファンジオが逝去した時にテレビ朝日系「カーグラフィックTV」で追悼特集が組まれ、モスのインタビューが紹介された。

(レース後にファンジオから)《かなわなかった》と言われた。ファンジオが私を追い越そうと思えばできたと思う。おそらく私にとってイギリスグランプリに優勝することがどれほど重要か理解してくれていたのだろう。

(ファンジオが譲ってくれたと考えているのかという問いに)そう感じる。彼は私に敬意を払ってくれた。私は彼を心から尊敬している。父親のようにさえ思うよ。

この挿話をひも解くたびに筆者の脳裏には「騎士道」という言葉が頭に浮かぶ。もちろん60年以上前のモータースポーツにも駆け引きはあったし、醜い確執も存在した。だが後年にあった表面上似た話、例えば1991年日本グランプリでアイルトン・セナがゲルハルト・ベルガーに勝利を譲ったシーン、とは明らかに異質の見えない何か、ある種の矜持を感じるのだ。

モスは前述の『GRAND PRIX SHOW DOWN/SHOOT OUT(邦題:栄光的瞬間)』の中でモータースポーツの核心を突くこんなコメントもしている。

レースはいちばんクリーンなスポーツだと言うひともいるが、歳をとるにつれて、そう断言する奴が嫌いになるね。だが、やはり、私もレースは他のスポーツに比べれば、純粋だと思うね。

英国のモータースポーツジャーナリスト、アラン・ヘンリーは名著『世界の有名な50レース1935-1987』(グランプリ出版;1991年)の中で1955年イギリスグランプリを「モス堂々の優勝」と称え、後年の『The Top 100 Formula One Drivers of All Time』(Icon Books Ltd;2008年)のなかで並みいるワールドチャンピオン経験者を退けてモスを第1位とした。これを自国びいきと断ずるはたやすい。しかしモスのドライバー人生、そして引退後も貫いた一本筋の通った佇まいを辿るとき、思わず頷く自分がいる。