約1年前に行くと決めた演奏会。幸いにも指揮者、曲目、ソリスト、全て予定通りのラインナップで開催された。
《演奏曲目》
大澤壽人:サクソフォン協奏曲(1947)
トマジ:アルト・サクソフォンと管弦楽のためのバラード(1938)
~休憩~
約1年前に初演された「交響曲」で始まり、20世紀半ばに東西で書かれたサクソフォンとオーケストラのための作品が続き、19世紀初頭に生まれた傑作交響曲で締めるプログラム。聴き進めるにつれて時代を遡る面白さ以上の妙味が感じた。
自作自演の「交響曲」は2016年4月~2020年3月にミュージックアドヴァイザーを務めた大阪交響楽団の委嘱による10分強の作品。4つの和音とティンパニの強打がカギとなり、プロコフィエフの第6番の終楽章に近いやや乾いた叙情をはらんだ楽想に作曲者特有の民謡風味の成分が出入りしながら、峻厳な響きの稜線が展開する。弦楽器、管楽器、打楽器それぞれに難しいところ、言い換えれば「見せ場」があり、オーケストラの各セクションの力量をテストしようという作曲家兼指揮者(+ミュージックアドヴァイザー)ならではの「教育的配慮」が覗えた。
初演時のFM放送を聴いた際は終わり方が唐突に思え、解説の伊東信宏は「続きがあるのではないか」と推測していたが今回聴くとこちらが分かっているせいもあろうが割合腑に落ちた。
考えてみれば1972年に旧日本フィルハーモニー交響楽団が分裂した際に外山雄三は明確に日本フィルの側に立ち、著書で新日本フィルとその当事者を批判していた。その外山が新日本フィルの指揮台に立って自作を披露する、昭和は遠くなりにけりを実感した。
大澤壽人のサクソフォン協奏曲は日本で初めて書かれたサクソフォン協奏曲らしい。音源もないようで私自身初めて聴く作品。3楽章構成で10分強、ほぼ続けて演奏される。
第1楽章はピエルネを思わせる洒落た雰囲気でそういう切り口の曲なのかと思ったら、ゆっくりめの第2楽章ではジャズっぽさの中に民謡調の楽想が顔を出し、第3楽章はもう堂々と浪速の祭囃子みたいなリズムが舞う。
「オレは戦前ボストンとパリで学んでかの地でも喝采を浴びたんだ」という自負からかフランス調で書き始めたものの途中から「やっぱり日本っぽい音楽にしようか」みたいになっているのが興味深かった。戦争で円熟の機会を奪われた影響なのか、どの楽章もきっかけの動きはなかなか魅力的だが展開力に弱さがある。
トマジのバラードはサクソフォン界隈では有名だがピアノ伴奏による演奏や録音が多く、オーケストラとの共演で聴ける機会は意外に少ないようだ。シンプルな音の動きの光と翳が移ろう濃密な色彩に満ちた洗練度の高い作品で約15分がすっと過ぎた。
いま一番売れっ子のサクソフォン奏者、上野耕平のソロは動きの速いパッセージを華やかに吹き切るのはもちろん、静かな部分では琥珀色のこくのある音をじっくり聴かせる奥行きも有し、充実ぶりを見せつけた。3倍近い年齢差のある指揮者とのやり取りは時折ギクシャクしたものの作品の特徴を丁寧に解きほぐした共演と言えた。
後半のベートーヴェンは要所のリズムはガチっと処理する一方、遅いテンポで浮遊させるなど一筋縄でいかない内容。かつては新即物主義風の音楽作りが際立ったが少し前に聴いた読響の公開録画の頃から多少緩ませるというか、一種の愉悦感を醸し出すようになってきた。また第2楽章冒頭の低弦の動きは暗く冷たいタッチでこういうのがバルトーク、ショスタコーヴィチまで繋がるのかと不思議な思いにかられた。
新日本フィルはかつて見知っていた中堅、実力者の団員が相当いなくなりロートルと若手ばかりのような状態で管楽器の命中率や響き全体の安定性が正直落ちた。オーケストラが1番困っている時に日本にいない音楽監督は更迭して早急にオーケストラの技術面の再構築を図らないと存続すら危ういだろう。
今回のプログラムはソヴィエト・ロシアの影響を感じさせる外山雄三の作品、フランスの影響がにじむ大澤壽人のいわば秘曲と近い時期のトマジの作品、そして日本の洋楽受容の原点ともいえるベートーヴェンが並んだ。加えて戦後楽壇を担ってきた重鎮とこれからを切り拓くキラキラした才能の邂逅。日本のクラシック音楽の過去現在未来に想いを馳せる巧みな顔ぶれ、構成の演奏会だった。
※文中敬称略
ベートーヴェン: 交響曲全集 外山雄三(指揮) 大阪交響楽団
チャイコフスキー: 交響曲第6番「悲愴」 外山雄三(指揮) 大阪交響楽団