アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

安田猛さんを悼む【スコアラーによる「快挙」達成】

1970年代のヤクルトスワローズの主力投手で引退後はコーチやスコアラーも務めた安田猛さんが2月20日に逝去、73歳だった。「ペンギン投法」と呼ばれたテイクバックの小さい左のやや変則サイドスローで球速こそあまり出ないが切れ味鋭く投げ込み、最初の2シーズンは当時全盛期の王貞治氏を1割台に抑え込んだ。

現役を退いて以降は前述のようにコーチやスコアラーを歴任。とりわけ野村克也監督時代のスコアラーとしての仕事ぶりは目覚ましく、1995年日本シリーズの「イチロー対策」は後々まで取り上げられた。

number.bunshun.jp

また1997年9月2日、石井一久氏がノーヒットノーランを達成した際にも安田さんが予め示したデータが活きた。野村克也さんは『無形の力:私の履歴書』(日本経済新聞出版社;2006年)の「スコアラーの大ヒット」という章でこう記している。

「今日はノーヒットノーラン、行けるかもしれない」

3回を投げ終えた石井一が、そんな予感を口にしていた。

1997年9月2日の横浜戦。その言葉通りに石井一は、9回に入っても150キロ台の快速球を投げ続け、史上65人目の快挙を達成したのだ。

この年、ヤクルトは開幕直後から好調で、首位を快走していた。7月終了時点で2位の広島と9.5ゲーム差の独走。優勝は時間の問題と見られていた。

ところが、8月に入り、横浜が驚異的なスピードで追い上げてきた。何と8月の月間成績は20勝6敗、球団記録を更新する白星を積み重ねてきたのである。

瞬く間に3.5ゲーム差に追い上げられ、9月2日からの首位攻防2連戦を迎えたのだ。「ここで連敗したら危ない。勢いからいって逆転される」。そう思っていたときに、安田スコアラーが貴重なデータを持ってきた。

安田スコアラーは173センチの小さな体で、通算93勝を挙げた左腕。私が就任当初は投手コーチをしていたが、少し癖のある性格をしていたので1人でする仕事の方がいいだろうと思い、1995年からスコアラーに転身してもらっていたのだ。

私はいつもスコアラーには「なるべく細かいデータを出してくれ」と注文している。「新聞社やテレビ局が出すようなデータはいらない。現場に生かせるデータを出してくれ」と。

例えば、私が必要としているデータはこういうものだ。

ボールカウントは12種類ある。初球はどんな球種の球を、どこのコースに投げることが多いか。カウント0-1ではどうか。カウント0-2では・・・。12種類のボールカウントごとにそれを分類し、傾向を出してくれと依頼した。ただし、注意しなければならないのは、捕手が内角に構えていて外角に来た場合、それは投げ損ないなので必ず内角として書いてくれ、と頼んでいた。

打者の場合も同じ、会心の当たりをA、普通の当たりをB、ボテボテの当たりをCとし、どのコースの球をヒットにし、どのコースだと凡打になるか。そして、どのコースの球に空振りし、どのコースだとファウルになる確率が高いか。そういったデータを出してもらっていた。この場合も、ヒットだったとしてもボテボテの当たりなら、それは打ちそこないなのでCと書くように、と頼んでいたのだ。

この時、安田スコアラーが持ってきたのは次のようなデータだった。

「横浜の打者のAゾーンは、高めばかり。低めはBかCゾーンである」

聞いてみれば当たり前のことだ。「低めを丹念につけば打たれない」というのは投手のセオリーである。だが、それは絶対ではない。低めのボールが好きな打者もいるので、多少の猜疑心を持って投球している。

だが、改めてデータで示されると、それは確信に変わるのだ。データを拠り所に自信を持って、低めの球を投げられるのである。

この日の石井一は低め、低めにボールを集め、ほとんどボールが高めに浮かなかった。その結果が10個の内野ゴロ。いつものように力任せに三振をバタバタと取りにいかなかったことが、ノーヒットノーランの快投につながったのだ。

以前のブログ記事で記したように野村克也さんの言葉や考え方に「オリジナル」は少ない。殆どは先人に起源があるか、よく聞けば当たり前の話。ただ、野村さんは経験から学んだ要素や集めたデータを絡めて、魅力的な組み合わせで語る能力があった。そしてもしかすると「煙たいコーチ」だったのかもしれない安田さんの特性を見抜き、配置転換させて、喜ばしい成果が上がる状況を設計した。スコアラーの役割に改めて光を当てる結果ともなった「大ヒット人事」といえる。もちろん期待に応え、球史に残る戦いや快挙を支えた安田さんのプロフェッショナルな働きぶりも見事だった。今頃、天国で野村さんと語りあっているだろう。

choku-tn.hatenablog.com