アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

日本の将来を見据えて【安倍首相東欧歴訪】

エストニアはIT先進国でNATOのサイバー防衛の拠点が置かれている。サイバー空間の安全保障政策が未だ不十分な日本にとってエストニアとの関係深化は重要。昨年の欧州歴訪時にもエストニア訪問が予定されたが九州北部豪雨対応のためキャンセルした。ようやく訪問が実現したのは喜ばしい。
東欧諸国は近年日本人旅行者が増えており、文化交流が盛ん。経済面の延びしろもある。日本の将来の成長、国際的発言力の伸長を図る上で大切な地域。
また安倍首相としては昨年の欧州歴訪で思うようにいかなかった北朝鮮の脅威に対する認識の共有を今回こそ図りたいが、果たしてどうだろうか。http://choku-tn.hatenablog.com/entry/2017/07/13/121150
https://www.jiji.com/sp/article?k=2018011001072&g=pol

No.1投手は稲尾和久【「プロ野球総選挙」を嗤う】

先日テレビ放送された「プロ野球総選挙」で歴代No.1投手に大谷翔平が選ばれたという。笑止千万な話。まだキャリアの発展途上にある選手を日本プロ野球80年の歴史を作ってきた偉人たちの上に置くなどあり得ない。投票した連中、番組制作者のいずれもが歴史を軽く考えている証拠。
もし私が歴代No.1投手を選ぶなら躊躇なく稲尾和久(1937-2007)。実働14年(西鉄ライオンズ;1956-1969)で756試合に登板して276勝、しかも負けが137と少なく、通算防御率1.98。コースに決まる直球にシュート、スライダーの出し入れを絡め、コントロール抜群。野村克也張本勲が最も勝負しがいのあった投手として度々挙げている。
また「神様、仏様、稲尾様」と称されてファンからの支持も絶大。日本プロ野球史上、幾多の名投手あれど神様や仏様と並べられたひとは稲尾ただ一人。
2007年の没後には旭日小綬章が贈られ、2012年は西鉄ライオンズの後継球団の埼玉西武ライオンズがいったん制定されながら球団譲渡後失効した永久欠番24番を再制定した。稲尾の記憶が未だに色褪せていない証。
リアルタイムで稲尾の選手、監督時代を知らない私はテレビ中継の解説や「今日感テレビ」などで晩年の稲尾の話す声、姿を視聴した。稲尾は伝説の大投手とは思えないほどいつも優しく穏やかな口調で語り、ことさら自身の偉業をひけらかさなかった。その姿勢に深い尊敬の念を抱いた。真の大投手、大人物だった。
※文中敬称略。

中曾根-故耀邦最後の会談【外交文書公開より】

2017年12月20日に外務省が公開した外交文書ファイルのうち、最も興味をひかれたのは1986年11月、中曾根康弘首相が訪中、失脚2ヶ月前の故耀邦総書記と行った日中首脳会談の記録。
http://www.sankei.com/smp/politics/news/171220/plt1712200040-s1.html
私は子供の頃、故耀邦氏の身に起きたことで初めて「失脚」という言葉を聞き、その響きに周囲の大人に意味を尋ねられなかったほどの恐怖を覚えた。今なお「失脚」と聞くとドキッとする。なので今回の外交文書公開で最後の会談の中身を読み、感慨深いものがあった。雄弁能筆過剰の中曾根氏の著作以外の視点から1980年代の外交を検証可能になったのは喜ばしい。
故耀邦氏は戦後日本の歩みを踏まえて真の改革解放、経済成長には政治改革が必要と考え、そのために日本を重視し、中曾根氏と肝胆相照らす関係を築いた。一方、最高実力者の鄧小平氏にとって改革解放とは文化大革命で傷付いた中国共産党の正統性を回復し、政権の永続を確かにするための事業にほかならず、政治改革など眼中にない。従ってかつて自ら「後継者」と中曾根氏に紹介した故耀邦氏は次第に鄧小平氏にとって危険な人物となった。
1986年11月の中曾根氏との会談で鄧小平氏は政治改革や引退を事実上否定。そして1987年1月、故耀邦氏は失脚、2年後に急逝した。
中曾根、故耀邦の両氏は会談の後、書を交換した。たっぷりの墨で豪快、自己顕示欲満々の中曾根氏に対し、故耀邦氏の書は繊細で品のあるタッチだった。中国共産党の最高指導者としては故耀邦氏はまともすぎたのかもしれない。
2012年、中曾根氏は訪中し、その際に故耀邦氏の墓参を希望した。だが先方は慇懃に断り、代わりに故耀邦氏の家族を中曾根氏に引き合わせた。2010年頃、温家宝氏が人民日報のエッセイで故耀邦氏に触れたことはあるものの、まだ名誉回復は図られておらず、外国の元要人を墓に案内するのは難しいのだろう。
仮にチャイナの元要人が訪日した際に田中角栄氏の墓参を希望したなら、田中家の理解が得られれば何の問題もなく可能なはずだし、政府与党が口出すことはあり得ない。
「日本はありがたい国でね。私は没落もしないで、のうのうとしてやってきた。しかし、中国においては胡耀邦が、韓国では全斗煥が、政局の波に揉まれて、憂き身をやつさなきゃならんという立場になっていった。そういう面で、中韓の政治というのは安定性が日本と格段に違う。日本は、皇室を抱き2000年の長い歴史と伝統があるから、政治と社会の枢軸は固まっている。しかし、中国や韓国は易姓革命とか植民地とか、様々な経験を経ているから、日本のようにはいかないのだろう。中国、韓国の場合、権力闘争が生死と直結しているというところがありますね。そこにやはり、国情の相違があるわけです」
中曽根康弘が語る戦後日本外交』(中島琢磨ほか〔聞き手〕、新潮社;2012年)pp.379
中曾根氏の回想は至言。

田中-キッシンジャー会談の舞台を訪ねて【軽井沢万平ホテル】

1972年8月19日、田中角栄首相はアメリカの国家安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャー博士と会談した。来日にあたって田中首相との会談を望んだキッシンジャー博士だが、当初首相は「なぜ一国の首相が補佐官と差しで会談しなきゃいけないのか」と難色を示した。そこでキッシンジャー博士は旧知の中曾根康弘氏に調整を依頼。中曾根氏は田中氏に対して「博士が首相のもとを訪ねるという形ならいいじゃないか」ともちかけ、結局軽井沢の万平ホテルで会談することになった。
会場の万平ホテルを2017年10月に訪ねた。軽井沢を代表する名門でかつてジョン・レノンが定宿にしていたことでも知られる。f:id:choku_tn:20180109231625j:plain
ホテルの史料室には階段で使われたソファが展示されている。
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使われた「桜の間」はブティックに改装されていた。
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会談の主な議題は日米の貿易不均衡の是正だった。田中首相は特定の品目をあげて、アメリカからの輸入拡大を表明した。キッシンジャー博士は回想録で田中首相について「はっきりした意思表示と決断のできる人物」「曖昧さがもどかしい他の日本の政治家とは違う」と好意的な記述。
しかし、実のところキッシンジャー博士は次第に田中首相を危険人物と認識し、何らかの動きに出たとみられる。中曾根氏によれば博士は後年「ロッキード事件の対応はアメリカとして間違いだった。田中氏の扱いも含めて」と漏らしたという。
最初の会談から10年経った1982年、来日したキッシンジャー博士は目白の田中邸を訪ねている。アメリカの元要人が刑事被告人となっていた日本の元首相のもとに赴くという異例な出来事。2人は何を語り合ったのだろうか。
〈参考リンク〉https://www.dailyshincho.jp/article/2017/01030559/?all=1

O.E.Tの別動隊「Salon」2/25始動

2017年7月に結成公演を大成功させた指揮者・水野蒼生率いるオーケストラO.E.Tが2018年再始動。それに伴い2月25日、室内楽の別動隊「Salon」をスタートさせる。
ベルリンフィルウィーンフィルはいずれもメンバーによる室内楽活動を盛んに行っている。個々の資質向上、オーケストラのブランド力アップなど得るものが多いためだ。
結成約1年のO.E.Tがメンバーたちによる室内楽活動に打って出るのは挑戦的な企画だが、クラウドファンディングで結成公演をやってのけた彼らのこと、成算は十分だろう。名ピアニスト、イェルク・デムスが愛した成城学園前の小ホール「サローネ・フォンタナ」(旧称サローネ・クリストフォリ)を会場に選んだあたりに彼らのセンスを感じる。
しかも曲目が面白い。ピアノに「東京ピアノ爆団」でおなじみの三好駿を迎え、コルンゴルトピアノ五重奏曲ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ前奏曲室内楽版などロマン派から近代に連なる濃密な音楽時間を形作る。水野蒼生は案内役として出演。
若いオーケストラが進化を目指して試みる室内楽。その瑞々しい息吹に触れてはいかがだろうか。
https://twitter.com/o_e_tokyo/status/949591684324773888?s=17

指揮する前の戦いに強かったひと【星野仙一氏をしのぶ】

星野仙一氏は1986年秋、ドラゴンズ監督に就任直後、ロッテとの契約更改交渉が拗れていた落合博満を獲得するよう球団に強く求めた。星野氏の回想によれば戦力として落合がぜひ欲しかったわけではなく、「もし巨人に取られたらウチは当分優勝できない」と考えてのことだった。しかし当初球団は高年俸や扱いの難しさゆえにしり込み。これを見た星野氏はゴルフ場でオーナーを急襲、「いまの巨人のラインナップに落合が加わったらまたV9時代の到来ですよ。中日新聞はそれでもいいのですか?」と迫った。同じ新聞系球団のプライドを刺激する作戦が功を奏し、オーナーのゴー指令が出た。
名古屋の王子様と呼ばれ、「三顧の礼」で迎えられた星野氏は舞い上がらず、その立場を生かして自身の要求をきっちり球団とオーナーにのませた。後年、タイガース監督に迎えられた時も久万俊二郎オーナーに数字を突きつけて、金本知憲などの補強を実現させた。つまり指揮する前の内なる戦いに勝った。指揮する前の戦いの正否は名将と凡将の分かれ道になるケースが多い。せっかく頭を下げられて監督になったのに監督就任に舞い上がり、オーナーや球団に人事面の要求を忘れ、後で悔やむのは凡将。一方星野氏は指揮する前の戦いの強さで名将の道を歩んだ典型例。
〈参考文献〉浜田昭八『監督たちの戦い 決定版』上・下(日経ビジネス人文庫;2001年)
星野仙一『人を動かす、組織を動かす』(NHK出版;2004年)
※文中一部敬称略

冷めた眼と厚い情【星野仙一氏逝去】

1月4日に70歳で逝去した星野仙一氏は「巨人」に特別な思いを抱き続ける野球人生だった。
現役時代は巨人キラーとして活躍。「燃える男」のイメイジを纏いながら、実は緩い球を効果的に交える冷静巧妙な投球でONのタイミングを狂わせた。通算146勝のうち35勝(31敗)が巨人戦だったのは単に燃えていただけではなく、氏の芝居っ気が最もうまく発揮される場だったからだろう。
引退後解説者・キャスターに転じてからは美声で「マダムキラー」と持て囃された。その中で川上哲治さんや廣岡達朗などの巨人OBに接近、巨人の強さの秘密を吸収しようとした。ドラフト指名の約束を破られた恨みなどどこへやら、川上さんの運転手役をかって出て車中で話し込み、監督就任後は川上さんと同じ77をつける傾倒ぶりだった。また南海監督で地を這いずった広瀬叔功氏とも近しくなり、「負ける監督」の苦しさまで学んだ。ネット裏の時間をこれほど周到に監督就任までの準備に活用する人物は殆どいない。
星野氏本人はNHK教育のテレビ講演で現役時代の監督のうち、水原茂さんと与那嶺要さんから大きな影響を受けたと語った。ともに巨人OBで意に反して巨人から追われた過去を持つ。星野氏と響き合う要素があったのは間違いない。特に日系2世で日本に「併殺崩し」を持ち込んだ与那嶺さんの「(アメリカの)合理性と(日本の)浪花節」のハンドリングは監督時代に応用した。
ドラゴンズ監督に就いた星野氏は早々と巨人を破ってセ・リーグ優勝。当時の王貞治巨人監督を事実上の解任に追いやった。そして充電後の2次政権では長嶋巨人、タイガースとイーグルスの監督時代は原巨人を倒してリーグ優勝もしくは日本一に輝いた。
現役時代同様「闘将」イメイジを前面に出す一方、気配りや情の厚さでも知られた。尖った選手を気持ちよく働かせる術は選手を自邸に招いて督励した与那嶺さんから学んだ要素。
補強やメディアへの根回しなどグラウンド外での周到さ、信頼した選手は使い続ける情が功を奏したペナントレースに対し、「この試合に勝つ」ための非情さが求められる短期決戦は川上さんの薫陶を受けたのに大の苦手。ホークス監督となった王貞治さんからは日本シリーズで2回お返しされた。しかしイーグルス監督3年目の2013年、田中将大投手を得たこと、佐藤義則投手コーチへの権限委譲の成功により3球団目にして悲願の日本一の座についた。しかも前述のように巨人を破っての栄冠。これが星野氏の野球人生のハイライトだった。
私にとって星野氏は王貞治ホークス会長、浜田昭八氏(元日経運動部長、『監督たちの戦い』著者)とともに野球への興味を呼び覚ましてくれた「恩人」。星野氏の二面性にひかれたことがそれまで何となく見ていた野球が大切な存在になるきっかけだった。
特定の投手の集中起用など旧タイプの「名将、知将」から受け継いだ欠点はあったが野球ファンの心をとらえる魅力を生涯放ち続けた。殿堂入りできて本当に良かったと思う。R.I.P.f:id:choku_tn:20180106231134j:plainf:id:choku_tn:20180106231216j:plainf:id:choku_tn:20180106231254j:plainf:id:choku_tn:20180106231334j:plain
〈参考文献〉浜田昭八『監督たちの戦い 決定版』上・下(日経ビジネス人文庫;2001年)