タクティカートオーケストラ×坂入健司郎 ブルックナー交響曲特別演奏会
~曲目~
アントン・ブルックナー(1824~1896):
モテット「Locus iste(この場所は神によって創られた)」WAB23
モテット「Os justi(正しい者の口は知恵を語り)」WAB30
以上 伊藤心指揮 Coro Oracion
-休憩-
交響曲第9番 WAB109(第1楽章~第3楽章コールス校訂版〔2012〕、第4楽章 石原勇太郎補筆版)
説得力ある補筆
ブルックナーの交響曲第9番は、作曲者が第4楽章を完成できずに亡くなり、殆どの指揮者、オーケストラは第3楽章までの交響曲として演奏してきた。
他方、第4楽章は未完ながら例えばシューベルトの交響曲第7(8)番(いわゆる未完成交響曲)の後半楽章よりは、遥かに多くの草稿、参考資料が現存する。
そのため1980年代後半以降、近年まで音楽学者による何点かの補筆完成の試みがなされ、実演や録音に至ったヴァージョンもある。ただ、これまでのものは30分に及ぶ長大なもので私は「試み」に敬意を払いつつも、どこか違和感を覚えた。
第6番以降のブルックナーの交響曲を見ると、フィナーレは比較的シンプルな音楽にまとめている。
第8番にしても第3楽章のアダージョの重みから比すると、壮大ながら良くいえば洗練された、意地悪な言葉だと「俗物的によくできた音楽」(岩城宏之さんがベートーヴェンの第9交響曲のフィナーレをたとえた言葉。ブルックナーの交響曲第8番はベートーヴェンの第9交響曲と連続性あり)。
となれば、第9番もブルックナーはもう少し簡潔に締め括るつもりだったのではと私は想像してきた。
今回の石原勇太郎による補筆完成版は過去のそれに比してずっと短く20分少々。しかも、響き自体もすっきりした質感で展開する。僭越ながら私の思いに応える音楽で聴いていて比較的すんなり耳になじんだ。締めをブルックナーの交響曲第1番の終わり方に近くしたあたりはある種の遊びで好悪を分かつかもしれないが。
幕間のトークコーナーにおける補筆者自身の説明では、遺された資料の中からブルックナーが本当に使おうとしていたものを慎重に選び出したそうだ。また交響曲第4番の1888年稿(最初の出版に際して弟子たちが編んだいわゆる「改訂版」)に、ブルックナーが加えた修正などから晩年のブルックナーの音楽的方向性を読み取り、補筆作業の参考にしたという。
このスタンスに対する賛否はともかく「石原版」は結果として説得力のある内容に結実したと私は考える。
表現から感じた作品との向き合い方の世代間ギャップ
演奏面については苦い後味だった。破綻はなく真剣さは伝わる一方、響きが全体に軽く簡単に弾き流し、吹き飛ばす印象なのだ。
(私は「ブルックナー=重厚で厳かなサウンドが必須」とは思わない。例えばBISレーベルで進行中のトーマス・ダウスガードの録音は、見通しの良いサウンドがすいすい移動するブルックナーだが、軽さはなく強靭で芯のある音楽で繰り返し聴いている)
演奏を聴きながら、指揮者や楽団員と私の間に作品の受け止め方に関する世代間ギャップがあると感じた。
昭和生まれで1995年秋からクラシック音楽を聴き始めた私にとって、ブルックナーの交響曲第9番は、コンサートもとより録音物でも無意識のうちに「構えて」聴く作品。
また録音で親しんだ演奏自体、マタチッチ、ヴァント(後にだった1度だが生を聴けた)、朝比奈隆、スクロヴァチェフスキ(複数回実演で接した)といずれも指揮者、オーケストラの一定の覚悟を感じさせた。
これらはあくまで個人的体験だが、一般的にもある年代まで洋の東西を問わず、ブルックナーの交響曲はやる側、聴く側ともに「覚悟」の上で向き合う空気があった。
しかし、本公演の指揮者、オーケストラの楽団員はいずれも平成生まれ。
みんな技量は高く、スマートフォンで古今東西の音楽と演奏を簡単に聴ける世代。従って「ブルックナー」だと構えず、数多ある名作交響曲のひとつとして作品に向き合うと推測する。
それは変に力まないという文脈ならいいのだが、どことなく音楽に重みやピリッとしたものが通わず、熱く鳴る割にフワフワしていた。
もちろん演奏には色々な事情が絡むので、今回たまたまの可能性もあるが、ちょっと違和感の拭えない内容だった。
※文中一部敬称略
【参考CD】