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山椒系ちょくの切り抜き帖

靖國神社-千鳥ヶ淵戦没者墓苑-鎮魂の碑【平成最後の8月15日】

自由で民主的な秩序ある社会が真の平和。この世界で最も尊いもの。ひとりひとりの国民が心して守り続けてこそ保たれる。平和の対義語は戦争ではなく無秩序。戦争の対義語は交渉もしくは貿易。米英並びにチャイナとは事を構えない。

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靖國神社を参拝。#靖国神社 #靖國神社 #参拝 #8月15日 #敗戦 #2018年 #平成30年 #終戦記念日 #敗戦の日

14時30分頃。強い日差しのなか、たくさんのひとが訪れていた。

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千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝。#千鳥ヶ淵 #千鳥ヶ淵戦没者墓苑 #九段下 #敗戦 #敗戦の日 #終戦記念日 #2018年 #8月15日 #無名戦士の墓 #御製碑のある公園 #御製 #昭和天皇 #今上天皇 #常陸宮妃殿下 #正仁親王妃華子 #秩父宮妃殿下

16時頃。いつも不思議に思うのは坂田道太の揮毫が「千鳥ヶ渕」なこと。

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千鳥ヶ淵戦没者墓苑 #さざれ石 #大賀はす #六角堂 #千鳥ヶ淵戦没者墓苑 #2018年 #平成30年 #8月15日 #終戦記念日 #敗戦の日 #敗戦

君が代」の歌詞でおなじみのさざれ石。花の植えられたゾーンなども初めてゆっくり見て回った。

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鎮魂の碑を訪問。#東京ドーム #鎮魂の碑 #沢村栄治 #景浦將 #吉原正喜 #戦没野球人 #戦没者 #日本プロ野球 #2018年 #8月15日 #終戦記念日 #敗戦 #敗戦の日

吉原正喜(1919-1944)は熊本工業学校のキャプテンとして川上哲治(1920-2013)とバッテリーを組み、夏の甲子園で準優勝した名捕手。川上は回想する。

吉原とは小学校のときからのライバルだった。彼は本庄尋常高等小学校の捕手だった。熊工では2年生で正捕手になった。吉原は年齢が私より2つ上だったこともあるが、われわれのクラスでは1番大人っぽく、彼が女子学生の話などをすると、みんな喜んで聞いていたものである。

また吉原は捕手にしては足が速く、県下の陸上競技大会があると、100メートル、200メートル、800メートルリレーなどにも出場していた。捕手であれほど足の速い人を、私はいままでみたことがない。

5年生の神宮大会のとき、吉原はジが悪化した。しかし4番のキャプテンが休むわけにいかない。立ったり座ったりできないので、ずっと座ったままでプレーを続け、とうとう最後までやりとげて優勝したのである。吉原は負けん気もすごかったが、我慢強い男でもあった。

『シリーズ《私の履歴書》伝説の名将』(日経ビジネス人文庫、2007年、pp.160-pp.161〔新聞連載1974年12月〕)

これだけの逸材ゆえ当然プロのスカウトの注目を集めた吉原は結局ジャイアンツに入団、その「刺し身のツマ」(同、pp.162)として川上も入団した。川上は入団2年目から事実上野手に転向、首位打者を何度も獲得する大打者となり、兵役を経て1958年まで活躍。日本プロ野球史上初の2,000本安打を達成し「打撃の神様」とまで言われた。またジャイアンツの監督を14シーズン務め、日本一に11回輝いた。

一方吉原は1938年~1941年の間、大活躍するも応召のため退団。1944年にビルマで戦死した。背番号27は今なお名捕手の象徴として通っている。川上いわく

生きて復員していれば、必ずや1軍の将となっていただろう。吉原だけではなく、多くの逸材を戦争で失った。(同、pp.196)

もし吉原が健在だったら引退後の川上の球歴は相当違ったはず。また野球における捕手の重要性が日本でもっと早くクローズアップされた可能性もある。本当に惜しいひとを亡くした。

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