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文化・社会トピック切抜き帖

生誕100年、西本幸雄さんの「私の履歴書」【「育てて」「勝てる」稀有な名将】

2020年4月25日、本来なら元プロ野球監督(大毎/阪急/近鉄)の西本幸雄さん(1920年4月25日~2011年11月25日)の生誕100年記念試合が開催予定だった。残念ながらプロ野球の開幕延期により中止となったがこの記念日に寄せて生前日本経済新聞の名物コーナー「私の履歴書」で残した半生記の内容を中心にその人生と業績を振り返りたい。

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Tadashi Nakagawa on Instagram: “野球を深掘りする楽しみは人間集団の心の問題の不可思議さが感じられること。3冊はそれをリアルに検証したもの。男同士の関係が一度壊れるといかに厄介かを教えてくれる。 #プロ野球 #王貞治 #長嶋茂雄 #監督 #嫉妬 #読書 #人間関係 #日経ビジネス人文庫 #野球のバイブル…”

はじめに

西本幸雄さんが「私の履歴書」に登場したのは1992年8月。当時71歳、ユニフォームを脱いで10年余りたち、関西テレビの解説者を務めていた。1988年には野球殿堂入りを果たし、いわば功成り名遂げた身として人生を振り返った内容と言える。

冒頭はこんな記述から。

私は和歌山中学で1年間だけラグビー部に所属し、体をぶつけ合うこの競技のおもしろさを知った。ラグビー部を退部して、中学4年の時から、野球と本格的に取り組んだ。野球は間のあるスポーツだ。息つく間もなく展開するラグビーと違って、1プレーごと、1球ごとに間が生じる。

だから退屈で、おもしろくないかというと、これが決してそうではない。間があるから考えるし、邪念が入る事もある。そこに野球の難しさがあるし、おもしろさもある。

中学、大学、ノンプロ、プロ野球を通じて、このスポーツの魅力にとりつかれてきた。(中略)野球は自分がプレーをしてもおもしろいが、コーチ、監督として参加しても、奥が深い。チームという人間の集合体が、苦しい鍛錬の時期を乗り越えると、上昇の機運といったものが肌で感じられるようになる。この時の楽しさは、何物にも代えがたい。

野球に限らず、鍛錬は時間をかけて、同じ事を繰り返してやらねばならない。どれだけ熱心にやっても、思うように成果が上がらぬ事がある。どうしてこんな事をやらなければいけないのかと、くじけそうになる。

私はあまりいい選手ではなかった。この程度の事しかできないかと、力の限界を何度も感じた。しかし、チームをあずかっている時は、限界というものを感じなかった。壁に突き当たっても、人と人との組み合わせを変えたりする事で、抜け出す道はあると思った。

野球の魅力と難しさを端的に表現していると思う。野村克也さんの書くものより血と汗のにおいがするのは「熱血手作り野球」と呼ばれた西本さんらしい。その特徴を3つの視点からひも解いてみる。 

情熱と先進性

キャンプでサーキットトレーニングを導入

西本さんは立教大学、兵役を挟んでノンプロの別府星野組などを経て30歳で毎日オリオンズ内野手としてプロ入り、1950年から1955年まで6シーズンプレーした。そのため選手時代の実績に特筆するものはない。しかしアマチュアでの豊かな経験が評価され、指導者の道が開けた。例えば立教大学時代から既に後の名将の片鱗が覗える。

主将で監督になった私は、練習にアクセントをつけるようにした。悲壮感をただよわせて、体力を消耗するだけではなく、やるからには効果が上がるような練習をしたかった。基礎体力をつける時期と、リーグ戦が近づいたときとでは、おのずから練習内容は違った。1週間の中でも、練習に強弱の差をつけた。

別府星野組で選手兼監督をした時には選手の給料のやりくり、興行師と招待試合のギャラの交渉まで担った。また毎日選手時代は1950年の初代パ・リーグ優勝・日本一に輝いた湯浅禎夫監督の「佐藤荒巻ライン」と呼ばれた継投策、 足を使った攻撃など当時としてはモダンな戦法の采配をつぶさに観察した。引退後西本さんは2軍監督に就き、厳しい環境のなかでひとのやる気を伸ばし、育てる難しさを体験する。途中球団合併で「毎日」が「大毎」と変わり、1軍コーチを経て1960年に1軍監督の座についた。そして1年目でパ・リーグ優勝するが三原脩監督率いる大洋と対戦した日本シリーズは第2戦のスクイズ失敗が響いて流れをつかめないままストレート負けし、更迭されてしまう。この「短期決戦に弱い」一面は後々まで西本さんについて回った。

さて1年間の解説者生活を経て西本さんは1962年、阪急の2軍コーチに迎えられ、翌1963年には早くも1軍監督となった。その年は最下位、選手の体力不足を痛感したことから翌年のキャンプで筋力トレーニングを取り入れる。

(最下位は)やむを得ないと思った。 選手に1年間をフルに戦う体力がないのだ。まず根本的に、体力から鍛えなければならないと感じた。

今でこそ各球団の間で、筋力トレーニングをするのは常識となっている。だが、当時は器具を使ったサーキットトレーニングをしている球団は、どこにもなかった。昭和39年の高知キャンプでは、高知市教委体育課長で陸連強化委員だった中川善介さんに、筋力トレの指導をお願いした。

器具といっても、最近の何千万円もするものではない。鉄アレイ、バーベルなど、簡単なものだった。ところが選手は「ボディービルをやりにきたのではない。野球の練習をしにきたのだ」と、拒絶反応を示した。特に、投手たちは、肩に余計な筋肉がつくからと、頑強に拒否した。

サーキットは何クール化のセットになっていて、一定の時間内にやらないと、効果がない。ところが、気乗りせずにやると、時間がかかるばかり。背筋を真っすぐに立てて上げなければならない器具を、いい加減な格好で扱う。やむなくコーチ陣がつきっきりで、およそプロらしからぬ、強制という形をとってやらせた。

1ヶ月もやると、体力はついてきた。きつく感じていた練習に耐えられるようになってきた。やっと選手が、筋力トレの効果を認めるようになった。それと同時に、練習というものは、つらくて苦しいものばかりでないと、かなりの選手が感じるようになってきた。

基礎体力重視、強弱のアクセント、単に身体を痛めつけるより実効性を重んじる・・・立教時代からの一貫した姿勢が反映されている。こうした取り組みが功を奏し、1964年は「本当に強くなって得た成績だとは思わない」(西本さん)が阪急は2位に浮上した。

また1966年の冬には野手強化のため当時例のなかった少人数での練習を行い、後に主力となる森本潔、阪本敏三、長池徳二の成長に繋げた。

驚きの「信任投票事件」

一方で激しい一面もある。1965年以降成績が伸び悩み、フロントが一部選手まで取り込んで更迭を画策していると察知した西本さんは1966年の秋季練習前に選手を集め、何と無記名の信任投票を行った。

辞めるという事については、悔いを残さぬつもりだった。ただ、選手が次第に力をつけ、これからという時期にさしかかっているのに、予想もしない形で、違った方へ曲がるのは無念だった。かといって、チェーンのはずれた自転車はこぎたくない。

その一方で、選手は酒の席で球団代表に迎合して、「あんな監督とは一緒にやれない」といっているだけではないかとも思った。「お前らの本心はどうなんだ」と聞きたくなった。(中略)

私と引き続き一緒にやる気のある者は〇、やりたくない者は✕印。退団が確定的な選手は加わっていないから、投票数は45票ほどだった。結果は✕印が4票、白票が3票。一般的には信任されたという事になるだろうが、私はそうとは受け止めなかった。

チームを動かして行く上で、これとこれをつかんでおけばいいという存在の選手が、5人ほどいる。100パーセント当たっているわけではないが、この時の阪急の「これとこれ」に該当する5人ほどが、✕印と白票を投じた。無記名でも、私にはそれがわかった。

「非常なショックを受けた」西本さんはすぐ球団代表に監督辞任を申し出た。事態はどうなったのか、元日経運動部長の浜田昭八氏の『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)にはこう記されている。

西本は球団に辞意を伝えて、引きこもった。渡りに舟と、球団は次期監督の選定に動き出そうとした。ところが、小林米三オーナーが西本支持を強く表明、球団に慰留を指示した。ほどなく、なにごともなかったように、西本はもとのサヤに収まった。

心おきなく練習を指揮したいという純粋な気持ちが、信任投票、辞意表明という過激な行動をとらせたのか、しかし、アンチ西本派は「違う。監督交代に動くフロントに反撃したパフォーマンス。もちろん、オーナーの支持を当て込んでいた」と屈折していた。

結局留任した西本氏。翌年の1967年、シフトや配球の分析で日本の野球を変えたと言われるスペンサーの活躍、前述した冬の少人数練習の成果などにより、阪急は球団創立以来初のパ・リーグ優勝を果たした。浜田氏はこう結んでいる。

白票を入れたことを明かした選手が、のちに西本に「話が唐突だったので、わけがわからないまま投票した」と言った。✕はだれとだれ、笑い飛ばせるようになったのも、時間が互いの不信感を洗い流してくれたから。翌67年から阪急が3連覇したのも、怒りや憎しみを消し去る大きな要因となった。

選手に直接、信を問うことが、監督の行動して望ましいとは言えないだろう。ただ、ことの善しあしは別として、12球団で選手による監督の信任投票をすると、どんな結果が出るのかと、興味がわく。ファンによる人気投票とは、かなり違った結果が出るような気がしてならない。

「信任投票事件」を乗り越えた西本さんは阪急を1967年~1969年、1970年と1971年の計5回、パ・リーグ優勝に導く。

金の卵を生かした育成術

山田、加藤、福本をどう成長させたか

阪急は1968年ドラフト会議でノンプロ勢に狙いをつけ1位山田久志新日鉄釜石)、2位加藤秀司(英司)、7位福本豊(以上松下電器)を指名。なんと3人とも後に名球会入りし、ドラフト史上最大のヒット指名とされた。言うまでもないが取ってから育て、チームの強化に繋げた点が西本さんの非凡さ。「私の履歴書」からは3者3様の接し方をしたことがわかる。

福本があれほどの選手になるとは思わなかった。阪急には山本公士という、素晴らしい足を持ち、守備もいい外野手がいた。その後継者になればと期待されたものの、ドラフト指名順位は7位だった。

入団の決まった福本が、同じ松下電器から入った加藤と一緒に、自主トレに参加した。屋内練習場でガンガンと打つ阪急の主力打者のスイングを見て、2人は「えらい所へ入ったなあ」と話していた。その日、打たせてみたが、主力とのスイングの差は歴然。それは仕方ないとしても、2人が運動靴のままで打った心掛けの悪さに失望して、いきなり説教をしたものだった。

『監督たちの戦い・決定版』によれば2人のリアクションを聞いた西本さんは心の中でニンマリしたらしい。「攻撃も叱責も先制が効果的」だと。その後の2人の努力を西本さんはこう綴る。まず福本。

福本は1年目から代走で使ったが、盗塁のサインを出しても、全く走れなかった。「足が動かない」と言うのだ。そこでファームへ落とし、試合状況がどうであれ、走らせるようにした。するとスタートのコツをしっかりとつかみ、盗塁王への道を開いた。

小柄だが、体作りには大変な努力をしていた。パワーがつき、2年目からは打者としても使える見通しが立った。ところがある時、左打ちの福本が、左方向に流す練習ばかりしていた。左へ転がすと、お前の足なら全部ヒットになると、南海のブレイザー・コーチに言われて、その気になっていたのだ。それでは小ぢんまりとまとまって、すぐに行き詰まると、私は反対した。福本は盗塁で名をはせると同時に、トップ打者としては最多の208本の本塁打を打つ打者になった。私のアドバイスは間違っていなかったと思う。

次に加藤。

加藤はファームでじっくりと育てる方針だった。加藤の打力を早急に必要とするチーム構成でなかったからだ。ところが、ドラフト2位の加藤は、7位の福本の一軍入りに焦った。そして、事もあろうに片岡博国二軍監督とケンカをしてしまった。片岡さんは「秩序を乱すあんなヤツはクビにしてくれ」と怒った。やむなく私が一軍で預かる形となった。

当時はスペンサーが打線から抜け、3番にだれをすえるかが問題だった。記者たちの質問に「それは加藤」と答えたところ、各氏が大きく取り上げてくれた。加藤はそれを見て、各コーチに「本当か」と、たずね回ったそうだが、私の所へは聞きにこなかった。

一本気な男で、もともと練習はよくやっていた。それ以後は、文字通り死にもの狂いの練習ぶりだった。左打者なのに、右へ引っ張るのが不得手だったが、右腕をたたみ振り切る打法を、短期間でマスターした。ケンカがきっかけとなり、マスコミが後押しした3番打者の誕生だった。

そして山田にはどう接したのか。

山田は富士鉄釜石(新日鉄)の時、腰を痛め、入団が半年遅れた。故障が治っている事がわかったので、入団2年目の昭和45年には、どんどん投げさせた。打たれても、負けても山田で押し、この年の山田は52試合登板、10勝17敗という成績だった。

試合を犠牲にしてまで投げさせたのも、山田を一目見た時から、これは阪急の将来を託す投手だと感じたからだ。打者は作れるが、投手は足腰のバネ、肩の強さなど、素質がものをいう。山田にあと必要なのは、実戦での経験だけと思った。打たれてもくじけず、山田はよく耐えてエースになった。

登用したコーチから後の名将が

獲得した戦力を生かすにはコーチの手腕が欠かせない。せっかく逸材がおかしなコーチの助言で潰れたなんて話は球界の歴史でいくらでもある。西本さんのコーチ人事ではそれまで接点のなかった青田昇を起用してチーム強化に繋げたことが有名だが「コーチを育てる」点においても非凡だった。

選手が輝き始める背後には、コーチの努力も隠されている。福本は足は速いが、守備はお粗末だった。これを一級品にしたのが、中田昌宏コーチのノックだった。中田のノックは初めのころ、しゃくり上げて打つだけだった。これだと、ノックの打球は高く、ゆっくりと弧を描くか、ドライブがかかって失速するかだ。

打者が放つような、伸びるノックの打球を飛ばさないと、いい外野手は育たないと厳しく注文をつけた。中田は現役時代に本塁打王になったほどの選手だ。懸命にノックの勉強をして、素晴らしく伸びる打球を打つようになった。中田自身も、そんなノックをして、選手がファインプレーをするようになる喜びを味わえたと思う。

中田昌宏は以後阪急、オリックスでコーチやフロントとして長く貢献するがそれ以上に大きな「遺産」となったのは上田利治仰木彬

上田利治(1937~2017)はアマチュア時代、村山実とバッテリーを組んだ野球エリートで即戦力捕手と期待されてカープ入りしたがポジション争いに敗れ、実働わずか3年だった。しかし真面目な姿勢が買われて指導者の道を歩み、カープのコーチや大リーグ見学で力をつけた。西本幸雄さんとの出会いは意外なきっかけだった。

『監督たちの戦い・決定版』によると

西本幸雄がほんの2、3日早く山内一弘に声をかけていたら、上田の人生も、球史も大きく違った展開を見せたことだろう。

阪急の監督だった西本は70年秋、広島の選手で現役生活にピリオドを打つ山内に、コーチ就任を求めた。西本が大毎の監督だった時の主砲。気心は知れているし、打撃理論も高く買っていた。ところが、山内にはひと足早く巨人監督の川上哲治からコーチ就任の声がかかり、入団を決めていた。そこで自分の代わりに、上田を紹介した。

山内は広島で3年間、この5歳年下の打撃コーチと接して、ほとばしるような情熱と優れた打撃理論に注目していた。西本はそれまで上田と面識はなかったが、勉強家であるといううわさは耳に届いていた。元捕手ということで、バッテリーを中心としたディフェンスを担当させようとすると、上田は打撃を担当したいと言った。打者育成にかけては第一人者の西本に申し出るのだから、相当の自信である。

阪急にとっては、入団3年目を迎える加藤秀司福本豊のバットに磨きをかけなければならぬ大事な時期だった。まかり間違うと、チーム作りのプランは根底から狂う。だが、西本は上田の熱意にかけた。紹介者山内の眼力を信用したことは、言うまでもない。

(中略)阪急での上田は”代役”であることをみじんも感じさせなかった。10年も前からチームに居着いているかのように、精力的に動き回った。広島でもそうだったが、監督にも臆せずに意見を述べた。これまでの阪急になかったタイプのコーチの登場を西本は歓迎し、チームは活気づいた。

上田利治にとっても強豪阪急で働くことで各選手の役割分担や強さを保つためのテコ入れの重要性など多くを学んだ。そして1974年、西本さんの後任として阪急監督に就くと「西本の遺産」を巧みに殖やし、1975年~1978年までパ・リーグ4連覇(最初の3年は日本一)を達成、2003年に野球殿堂入りする名将となった。西本さんと上田利治の成功により現役時代の実績や生え抜き、外様にとらわれない「適材適所」の人事の重要性が球界で広く認識された。

もうひとりの仰木彬(1935~2005)とは1974年に就任した近鉄監督時代に巡り合う。三原脩が率いた全盛期の西鉄のセカンドだった仰木は1970年に三原が監督を務める近鉄でコーチとなり、三原の離任後もとどまっていた。『監督たちの戦い・決定版』によれば西本さんは当初仰木を遠ざけたようだが次第に力量を認識していく。

オリックス監督の仰木彬は、西鉄三原脩に育てられた。三原の野球観、人生観に大きな影響を受けたが、監督-コーチの関係は、70年の近鉄で1シーズンあっただけ。コーチとして最も長く仕えた監督は、近鉄の西本だった。74年から81年まで8年間。コーチを務めながら、監督術をしっかりと学んできた。

近鉄での仰木はコーチ陣の手直しをするたびに、球団の解雇リストに名が挙がった。三原とその直系の岩本堯が退陣したあとはお役御免と見られたのだ。西本はコーチ陣編成については、いつも球団案を受け入れた。ただこのときの、仰木を切る方針には、妙にひっかかりを感じた。まじめなコーチぶりで、はずす理由はどこにもない。球団の方針に初めて背き、三塁ベース・コーチに登用したら、実にいい仕事ぶりだった。「サインの受け方、出し方、ゴー、ストップの判断は完ぺきだった。敵味方の選手の状態と戦況を的確に把握して、ただの一度もミスしなかった」と、西本が珍しく褒めちぎった。

当時から、指導者としてなにかを内蔵している感じだったが、表に出さなかった。「仰木マジックとやらで、今は色々とアイデアを出しているが、当時は提言しないコーチだった。それがいい、悪いの問題ではなく、監督からすれば、方針に沿って忠実に行動してくれる。ありがたいコーチだった」と言っていた。

仰木は長いコーチ生活を経て1988年、近鉄監督に就任。1年目からいわゆる「10.19」と語り継がれるライオンズとの熾烈な優勝争いを演じて2位、翌89年はライオンズを撃破してパ・リーグ優勝した。1994年からオリックス監督に就くとイチローを売り出し、1995年、1996年にパ・リーグ優勝。1996年は日本シリーズ長嶋茂雄率いるジャイアンツを破って日本一。2004年に野球殿堂入りを果たした。

西本さんはコーチ人事に関して「一族」を引き連れるタイプではなく上記のように球団が揃える陣容を基本的に受け入れた。「最近は新監督が息のかかったコーチをごっそり連れていく。私の場合は、このコーチでなければやれない、ということはなかった」とした上で「その代わりに私の方針を話して、それを守ってもらう。グチは別として、コーチには相談せずに、押し付けたといった方が当たっている」と述懐している(『監督たちの戦い・決定版』より)。原則を貫きつつ、幅広い視野で選んだ熱意あるコーチによるチーム活性化を図る姿勢は、結果的に将来の名将まで育てることになった。

大胆な人事と行動で道を切り開く

日本シリーズ終了翌日のトレード

しゃにむに選手を鍛え、ドラフトの運もあって強い阪急を作り上げた西本さんだったが日本シリーズでは同じ1920年生まれの川上哲治監督率いるジャイアンツに5回とも敗れた。通算で8勝20敗と文字通りの完敗。その理由を西本さんはこう見ていた。

巨人の長嶋茂雄王貞治の2人は、素質のままで通用する力があった。2人以外の選手は、訓練された力を、組織的に発揮して、相手を苦しめた。それを象徴するのが「ボールを打たぬ」という、ごく基本的な事だった。

選球だけではなく、当時の巨人の選手は、野球の上での役目を心得ていた。やっていい事と、いけない事とを、ちゃんと区別していた。それほど強固な巨人も、川上哲治監督から長嶋監督になったとたんに、大きく変わった。川上時代のわき役たちは、ボールカウント2ボールノーストライクでは、まず待球だった。それなのに、平気でボールくさい球に手を出した。こうあってはいけない事も、散見されるようになった。

V9巨人は日本プロ野球史上で、最も完成されたチームだったと思う。そのチームでも、ちょっとネジが緩むと大きく変わるという、人間集団の恐ろしさを感じた。

5度の対戦の中で「忘れられない」と西本さんが記すのは1969年第4戦と1971年第3戦。

前者は4回裏にホーム上のクロスプレーを巡って阪急捕手の岡村浩二球審の岡田功に暴行して退場。さらに代わった捕手は投球を捕球せず、岡田球審に直撃させる「報復」をした。阪急はリードしていたのに我を失って自滅、逆転負けしたばかりか品位を欠くという汚名まで被った。

後者は9回裏まで1-0とリードしたがエース山田久志王貞治に逆転サヨナラスリーランを被弾。山田はマウンド上に崩れ折れた。西本さんが問題にしたのはその前の2アウト1塁で長嶋茂雄が打った当たり。ショートゴロと思われたが阪急のショート阪本敏三が一瞬打球方向と逆に動き(そのように西本さんには見えた。阪本は否定)、センター前へ抜ける安打になったのだ。

『監督たちの戦い・決定版』ではこの2試合を「痛恨の2敗」としている。そして1971年日本シリーズの終了後、西本さんは行動に出た。捕手岡村、遊撃手阪本を東映の捕手種茂、遊撃手大橋とトレードしたのだ。同一リーグのチーム同士で同一ポジションの選手同士の異例のトレード、「熱血手作り」でも感傷的にならないのが西本さんだった。

近鉄への「売り込み」とチーム刷新

1973年、パ・リーグは前後期制が導入され、後期優勝の阪急は野村克也選手兼任監督率いる前期優勝の南海ホークスとのプレーオフで敗れ、西本さんは阪急監督を退いた。そして翌年から同一リーグの近鉄の監督に就任した。この時、西本さんは自ら近鉄のフロントに電話して監督就任を打診していた。『監督たちの戦い・決定版』によれば

73年に阪急の監督を辞任した西本については、「阪急のフロント入りするはずだったが、近鉄が同年秋、礼を尽くして監督に迎えた。阪急はリーグ発展のために、貴重な人材を譲った」と、表向きには言われていた。だが、西本自身が明かした事実は、堂々とした「売り込み」だった。

「阪急は2年後ならどこへ行ってもいいという条件をつけて、フロントに席を用意してくれた。だが、特別な仕事があったわけではない。まだ体力も気力もある。このとき53歳。ここでの2年は貴重だ。そこで近鉄の中島に連絡して、《オレをいらないか》と伝えた。」

近鉄の中島正明編成部長は、西本が立大野球部の主将だったときのマネジャーだった。岩本堯監督が辞任した近鉄は、後任を探していた。若い選手が多い近鉄にとって、西本の申し出は願ってもないものだった。近鉄と阪急の上層部の間で、ごく儀礼的な交渉はあった。しかし、この大物の移籍は、学生時代の仲間が話し合った時点で、実質的に決まっていた。

ちなみにセ・リーグの指揮を頭に浮かべたこともあったが「ここで改めて、セの野球を勉強するには、時間が足りないと思った」そうだ。フロントやネット裏で充電しながらセ・リーグの野球を勉強しよう、という発想は西本さんにはなかったらしい。

なお西本さんは後任監督の調整に手間取っていた阪急の森薫オーナーから相談され、前述の通り、上田利治コーチを推薦する。上田監督率いる阪急は1975年~1977年までパ・リーグ優勝と日本一を成し遂げ、1976年と1977年は先に西本さんが触れた長嶋監督率いるジャイアンツを破っている。あえて「長嶋ジャイアンツ」に言及したところに「上田阪急」を称える意図と「川上相手だから負けたんだ」という悔しさがにじむ。

さて1974年、近鉄監督に就いた西本さんはさっそく自主トレを視察。直ちにランニング中の梨田昌崇(昌孝)、佐々木恭介などの3年目グループを厳しく叱責した。

私の履歴書」によると

近鉄ナインは人間的な面では、外から見ていた通りに、いい連中がそろっていた。だが、勝つという事に関しては、なにかにつけて、ポイントが少々狂っていた。その1つの例が、練習に取り組む姿勢だった。昭和49年に近鉄の監督に就任した私は、自主トレの初日に選手を激しく叱った。

選手が隊列を組んで走る時、先頭を切るのは新入団選手だ。次いで2、3年目の選手、中堅どころ、ベテランと、年齢順に並んで走るのが、大体どの球団でも習慣になっていた。近鉄でもそうだったが、先頭、2列目に並んで一生懸命に走る選手を、後ろにつけた連中がブレーキをかけていたのだ。(中略)

私はブレーキをかけていた何人かの選手を呼び止め、全員の目の前で怒鳴りつけた。ようやくプロの水になじみ、主力選手への道を歩き始めた連中だ。なるほど厳しい監督だと、選手たちが感じるシーンもあったかもしれない。だが、考え違いは一刻も早く指摘してやらないと、次の技量を身につける段階へ進まない。

問題のある選手だけを片隅に呼んで、間違いを指摘してやるという方法もあるだろう。しかし、それが選手のメンツを重んじた方法だと私は思わない。いってみれば、チームは一家だ。なにが間違っているか、家長はなにを許さないかを、一家全員に知らせるためには、陰でこっそりとやらない方がいい。陰でやっていたら、周知徹底のために、何度も同じ事を繰り返さなければならなくなる。(中略)

初日に方針を明確にした事で、以後の練習はスムーズに運べた。あそこで私が、様子を見てから注意しようと、少しでもためらっていたら、チーム改革にはもっと時間を要したと思う。

最初にガンとやった西本さんは1974年シーズン終了後のオフから新旧交代のために大きな決断をする。1976年シーズン後までにクリーンアップの一翼の土井正博、元首位打者の永淵洋三、勝負強い打撃で鳴らした伊勢孝夫のベテランの主力3人を次々と放出したのだ。その意図を『監督たちの戦い・決定版』はこう記している。

「沈滞し雰囲気を変えるためにベテランをはずし、空席があるぞと、若手が色めき立つ状況にしなければと思った」と、西本は74年に近鉄の監督に就任した当時を回想した。素質豊かな打者は多かったが、”けいこ場横綱”ばかり。「試合の打撃をこなせたのは、土井、永淵、伊勢の三人だけだった」。その三人をあえてはずそうとしたのだ。

ベテランを外して生まれた空席に西本は1974年の自主トレ初日に叱った若手たちを抜擢していく。

次々とできた空席を目指して、若手は目の色を変えた。佐々木恭介、梨田昌崇、羽田耕一、平野光泰・・・・・・。西本が就任直後の自主トレ初日に、どやしつけた三年生グループが次々と空席を埋めていった。佐々木らにとって「怖いおっさん」と思った西本は、強引に空席を作ってくれた暖かい「おやじさん」だったのだ。

若手登用、育成を言うは易しいが行うは難しい。戦う集団には結果が求められるし、目先の結果に拘る雑音も内外から聞こえてくる。特にマスコミは功績のあるベテランに同情的だから往々にして「結果論」で責めたてる。ハイリスクでリターンの保証はない。西本さんは自身の決断をこう語る。

 「三人のベテランに比べると、ヒヨコのような連中を前面に出すのは危険だった。だが、一大刷新のために、あえて出した。若者が、オレたちも”選手”になれるという気分になってくれた」

1979年に近鉄はリーグ初優勝を果たした。

おわりに

1980年も近鉄は優勝したが前年を含めて日本シリーズは古葉監督率いるカープにいずれも3勝4敗で敗れた。1979年第7戦9回裏の攻防は故・山際淳司さんがスポーツノンフィクション「江夏の21球」にまとめ、多くのひとの記憶に残る。結局西本さんは日本シリーズに8度進出して8度とも敗退、1960年の日本シリーズと「江夏の21球」における2度のスクイズ失敗で短期決戦に弱い「悲運の名将」のイメイジが定着した。統計学的に言えば日本シリーズに8度進出して8度とも敗れる確率は0.3%だという。

西本さんは自身を「幸運な凡将」とみなしていた。「日本一になれなかったのは心残りだが、最高の場へ8度も進めたのは、悲運どころか、幸運だったと思う。私はあの時点で、一番いいと思われる方法を選択したと思っているから、全く悔いはない。しかし、せっかくの選手の努力が実らぬ策をとって、皆に悪いことをしたと思う」。

1981年、西本さんが近鉄監督として臨んだ最後の試合が終わった後、近鉄ナインはもとより対戦相手の阪急のナインも加わって合同胴上げが行われた。

球界の功労者が退く際の合同胴上げは2009年CSセカンドステージの野村克也イーグルス監督、2019年日本シリーズ阿部慎之助選手(現在のジャイアンツ2軍監督)などで見られたが西本さんのケースはその先駆け。2009年CSセカンドステージの場合、ファイターズ監督の梨田昌孝がかつて西本さんを胴上げしたひとりだったので当時を思い出し、野村監督の合同胴上げを呼びかけた。

西本幸雄さんは今まで取り上げた数多くの選手を育て、コーチで重用した上田利治仰木彬などに大きな影響を与えた。2人は監督として西本さんが果たせなかった「ジャイアンツを破っての日本一」を成し遂げた。

「人づくり」の名人であり、「育てる」と「勝つ」を両立した稀有な監督としてその名前はプロ野球史に輝き続けている。

※文中一部敬称略 

【参考文献】

『シリーズ・私の履歴書:プロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫;2007年)

浜田昭八『監督たちの戦い・決定版』(日経ビジネス人文庫;2001年)