アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

My Favorite Things:若杉弘のブルックナー:交響曲第9番

老いゆくなかで奏でた清澄な息遣いの歌

残念ながら若杉弘(1935-2009)の素晴らしい演奏を生では聴けなかった。私がクラシックを聴き始める1995年秋の少し前がこの指揮者の全盛期だったから。もちろん若杉は亡くなる1年ほど前までコンサート、オペラの両面の指揮台に立ったが企画、プログラミングの面白さに対して演奏内容は強靭さに欠けたり、統率の甘いケースが目立った。

演奏分析家の金子建志氏が指摘するように「手首の硬さ」とそれに起因する音楽の「返しの鈍さ」が若杉の弱点。一方でオーケストラのフォローがあった場合、若杉の形作る各パートが見通しよく分かれた上でフワッと絡んで動く音楽には魅力があった。都響とのマーラーチクルス(1986-1991)のライヴ録音は音像の遠い音質がもどかしいが、その欠点と美点の両方を聴き取れるいわば若杉の代表盤。

マーラーチクルス終了から10年後の1996年1月から若杉はNHK交響楽団ブルックナー+メシアンチクルスを開始(-1998年3月)。ブルックナー没後100年、NHK交響楽団創立70周年、サントリーホール開館10周年のトリプル記念年の大型プロジェクトで公演は全てNHK-FMの生中継が入り、しかもブルックナーは全曲BMGがライヴ録音、CD化する予定だった。ところがいかなる事情かライヴ録音のCDリリースは7番、3番で途絶、いつの間にかFMの件もなくなり、アリバイのように最終回の9番だけ生中継が行われた。

この9番は若杉の各パートの細部を丸く面取りしつつ、時折カクカク山と谷をつける棒にデュトワ治世下でアンサンブル技術、音の鋭さの増したNHK交響楽団がうまく応えて意外な名演だった。

※追記※

2020年8月、上記の若杉弘NHK交響楽団によるブルックナー交響曲がCDボックスで発売予定。

若杉弘指揮、NHK交響楽団/ブルックナー:交響曲全集

約10年後の2007年12月13日、若杉は東京フィルとブルックナー:交響曲第9番を取り上げた。ギュンター・ヴァント(1912-2002)がよくやったシューベルトの未完成との組み合わせ。以前若杉は「N響アワー」のヴァント特集にゲスト出演していたから意識したのだろう。私は6月に読響とのメシアンを聴いた(よかった)が、前年にテレビで見たNHK交響楽団とのマーラー:交響曲第9番てんでんばらばらの迷演奏だったことで、もう「普通のもの」はダメとみなしたから見送った。

若杉は2009年7月31日に逝去、同年12月に2007年12月13日のブルックナー:交響曲第9番のライヴ録音がタワーレコードの企画で発売された。私は全く期待せずに聴き始めたが透明度の高い柔らかな響きでじっくり運ぶ充実の内容。表面的荘厳さをつくろう演奏、逆にバリンバリンやってごまかすタイプとも違う、清潔で包容感のある音楽に胸がジンとした。

ときに若杉弘慶應義塾大学経済学部で学び、中退してプロの音楽家へと歩んだ。1991年、東京都交響楽団ワーグナーの「使徒の愛餐」をプロオーケストラ日本初演した際には母校の慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団と共演している。

同じく慶應義塾大学経済学部出身(卒業)の指揮者、坂入健司郎(1988-)は自ら結成した東京ユヴェントスフィルハーモニーブルックナーマーラー交響曲に取り組み、そのライヴ録音が注目を集めている。このコンビは日本で唯一「オーストリアの薫り」がする。具体的に言えば芯は強いがべっとり重々しくならず、楽曲の核を成すパートは軽やかに映え、陰陽の変化がはんなり展開する響き。ドイツとオーストリアの音楽は違うと聴き手が実感できる音楽を味わえる。そんな彼らが2018年1月7日に奏でるのはブルックナー:交響曲第9番。異次元の名演が間もなく聴ける。※文中敬称略

ブルックナー:交響曲第9番/若杉弘,東京フィル

ブルックナー:交響曲第9番/若杉弘,ザールブリュッケン放送交響楽団

ブルックナー:交響曲第4番/若杉弘,NHK交響楽団(1986年)

ブルックナー:交響曲第5番/坂入健司郎,東京ユヴェントス・フィルハーモニー

ブルックナー:交響曲第8番/坂入健司郎,東京ユヴェントス・フィルハーモニー