アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

優勝とチーム内ライヴァルの重要性【田淵幸一氏が抱いた羨望】

4月27日、TBSラジオは同月23日に逝去した衣笠祥雄さんを追悼する番組を放送した。

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この中で田淵幸一氏の次のような発言が強い印象を残した。

(コメント出演した山本浩二氏の発言を聞いて)僕はチーム内に同格のライヴァルがいなかった。タイガースでもライオンズでも。(競う相手は)いつも外国人ばっかりで。その点浩二が羨ましかった。

山本浩二氏は入団した際、高卒でカープ入りして既に主砲だった同学年の衣笠さんをまず追いつかなきゃいけない相手とみた。次第に自身が成長するにつれ、衣笠さんが同じ右打者として競い合えるライヴァルになった。当時2人はお互いに一線を引いて接していたという。変化したのはカープ初優勝の1975年。監督交代劇がありながらチームはオールスター前まで上位で戦う。そしてあのオールスターでの2打席連続アベックアーチ。「赤ヘル旋風」に火がつき、後半は優勝争いとなった。すると2人の意識が「チームが勝つためにどうするか」に転じ始め、意思疎通も増えた。衣笠さんは晩年NHK-BSプレミアム「アナザーストーリーズ」のインタビューで「彼(山本浩二氏)がひとりで背負ったら疲れる。だから僕がサポートしようと思った。浩二より前へ出ようと考えたことはない」と語っている。

山本氏、衣笠さんの活躍に古葉監督のタクト、投手陣の奮戦が加わって見事カープは優勝。かつての弱小球団はその後の10シーズンで優勝・日本一3回の強豪に生まれ変わり、2人はチームの両輪としてフル稼働した。山本氏いわく「(連続出場を続ける)衣笠氏の姿勢を見ていたらこっちは痛いのかゆいの言えなくなった」。事実山本氏はぎっくり腰に見舞われながらも古葉監督の命により出場、ホームランを放ったことさえある。

「ON」に匹敵する名コンビが地方都市の球団から出たことはセントラルリーグ、日本プロ野球のあり方や見方に新しい地平を切り開く画期的な出来事だった。優勝争いと良きライヴァル関係が選手の意識を変え、チームまで変えた典型例だろう。

一方同じ1975年、田淵氏のいたタイガースはいい戦いを進め、田淵氏は王貞治氏の連続本塁打王をストップさせる活躍だったが、エース江夏豊氏の不振(翌年ホークスへトレード)などが響いて優勝できなかった。チーム内にライヴァルがいなかった田淵氏はのんびりしたところが抜けず、翌年王氏の巻き返しを許すと肥満や故障で次第に低迷、結局1978年オフの深夜、タイガースで優勝を経験できないままライオンズへトレードされた。ライオンズ入り以降も甘い姿勢の続いた田淵氏が優勝の美酒を味わうのは廣岡監督の叱咤でシェイプアップに取り組んだ1982年のこと。タイガース自体1985年まで優勝できなかった。

盟友として知られる山本浩二氏と田淵幸一氏の球歴を想うとき、優勝とチーム内のライヴァルの存在がいかに重要か、改めて考えさせられた。