この音源の件は5月に取り上げた。
共演が行われた1954年4月は園田高弘、カラヤン双方にとって「夜明け前」だった。園田は1952年にかけて渡欧、ジュネーヴ国際コンクールでは予選落ちに終わるもパリに赴きマルグリット・ロンのもとで研鑽を積んだ。ところが翌年体調を崩し、肋膜炎と診断されてやむなく帰国、軽井沢で療養する。カラヤンとの共演は療養を一時中断してのものだった。カラヤンの側は当時ウィーン交響楽団を拠点に活躍する一方、フルトヴェングラーの影響下にあった名門楽団への共演は阻まれ、頭のつかえている状況。20歳違いの両者は音楽人生の転換点に差し掛かっていた。
同年秋、フルトヴェングラーが死去。カラヤンは1956年に後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BPh)の芸術監督に就き、加えてウィーン国立歌劇場音楽監督の座も掌中に収め、園田と共演した時の「気さくなお兄さん」から「帝王」への道を歩み始める。そんなカラヤンの推薦状を得て1957年7月、病の癒えた園田はベルリンに渡り、ヘルムート・ロロフに師事。カラヤンとも再会してBPhの演奏会出演の約束を取り付けた。事実1959年1月に園田はコンツ指揮、BPhと共演してベートーヴェンの「皇帝」を弾いている。この後も幾度かBPhの演奏会でソリストに起用されたがカラヤンとの共演はかなわなかった。マネージャーのバッシェがアンチカラヤンだったことの影響かもしれない。面白いことにバッシェの紹介で園田が知り合ったのがBPh、カラヤンと因縁浅からぬチェリビダッケ。1960年代、園田は若きチェリビダッケと複数回共演した。
音楽家の経歴でしばしば「・・・との共演で高い評価を得て」とか「・・・の推薦により」という表記を目にする。しかし実際どんな演奏だったのか検証できることはまれ。今回、園田とカラヤンの共演音源が世に出てようやっと「伝説の真相」を耳にできた意義は大きい。言うまでもなく園田の演奏はカラヤンが頷いたのも納得の内容。
※敬称略
〔参考文献〕
園田高弘『ピアニスト その人生』(春秋社;2005年)