1987年の日本グランプリのテレビ中継で初めてF1世界選手権のレースに接し、1988年から本格的に見始めたのでそれ以前のF1については幼い頃、CG誌の記事や写真を眺めたおぼろげな記憶しかない。その中から個人的なお気に入りを選んでみる。
1981年第9戦イギリスグランプリ(シルバーストーン)
ベンチュリーカー時代への対応を誤り、没落しかけた名門マクラーレンを蘇らせたロン・デニス、ジョン・バーナード、そしてカーボンファイバーモノコック。F1中継でおなじみの森脇基恭氏が解説。本田退社後、英国のコンストラクターで働いたエンジニア時代の回想や「F1グランプリ・イン・ジャパン」の際のバーニー・エクレストン氏とのやりとりなど長年内外のレースの現場に携わった氏ならではの含蓄に富んだ話が面白い。
1982年第11戦オーストリアグランプリ(エステルラリヒリンク)
雄大な起伏を持ったマウンテンコースでの超高速サバイバル。ブラバムがBMWエンジンの燃費の悪さを補うために持ち込んだピットストップ作戦が初めて実行される。ラストの一騎打ちも見応えある。
1983年第12戦オランダグランプリ(ザンドフォールト)
ピケ対プロストのタイトル争いの流れを大きく変えた伝説の1戦。F1に復帰したホンダエンジンがパフォーマンスの片りんを見せる。
1984年第9戦アメリカグランプリ(ダラス)
灼熱の市街地バトルの末に勝ったのはロズベルクの駆る後にF1を席巻するホンダエンジン。よくぞこんなところで開催したと思う。1回限りで終わったのも無理はない。
1985年第11戦オランダグランプリ(ザンドフォールト)
素早いジャッジで手繰り寄せた不死身ラウダ生涯最後の優勝。表彰台の他の2人は1990年代までF1をリードした。
1985年第14戦ヨーロッパグランプリ(ブランズハッチ)
youtu.beドライバーズタイトル決定レース。多彩なドライバーのキャラクターが前面に出てくる。最後のプロストのコメントが心に残る。ファイターロズベルク。
1986年第2戦スペイングランプリ(へレス)
レースにおいてはジャッジの遅れは優勝を逃す大きな要因。その典型例。セナ対マンセルの絡みはセナプロとは違ったスリルがあってゾクゾクする。
過日読んだ江夏豊氏の『燃えよ左腕』(「私の履歴書」)に自身の戦った野球は選手中心だった、いまはそうじゃないがいつか選手中心に回帰するのを待つと記されていた。ある意味F1もそうだと思う。ここに挙げたレースはみんなドライバー中心の時代と内容。無理かもしれないがやはりフォーミュラの戦いはドライバー中心であって欲しい。コントロールルーム中心の戦いは耐久レースのそれではなかろうか。