アフターアワーズ

文化・社会トピック切抜き帖

【夏休みスペシャル】タクトの残影~元ヴィオラ奏者の語る平成の読響

はじめに

1998年から2012年くらいまで読売日本交響楽団(以下読響)の会員だった。

三浦淳史の『20世紀の名演奏家』(音楽之友社)との出会いでクラシック音楽を聴き始めて約3年が経ち、いずれかの在京オーケストラの会員になろうと考えていた折、1996年のハンブルク州立歌劇場の来日公演(ワーグナー:歌劇「タンホイザー」)で感銘を受けたゲルト・アルブレヒトが常任指揮者に就くと聞いて読響を選んだ。なお、ほぼ同じ期間、東京都交響楽団の演奏会にもよく行った。

足繫く演奏会に通うなかで読響の進化、充実を実感し始めた。

単なる個人的印象にとどまらず、雑誌「音楽の友」「モーストリークラシック」の読者投票で読響の順位は上昇、満足度1位にも輝いた。

令和を迎えたいま、平成後期の在京オーケストラを思い返したとき、「読響躍進」はまぎれもない事実と言える。

choku-tn.hatenablog.com

上記リンクの記事で取り上げたように1978年~2012年まで読響のヴィオラ奏者を務めた清水潤一氏に平成の読響を振り返ってもらう意図で主に尾高忠明、ゲルト・アルブレヒト、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキの3代の常任指揮者とその時代、加えて長年共演した名誉指揮者ゲンナジー・ロジェストベンスキー(ロジェストヴェンスキー)に関する書面インタビューを行った。

便箋11枚に及ぶ全文(※)をここに掲載する。

※清水氏の了承を得て当方の責任で見出しをつけ、段落の順序や数字・語句の表記を一部修正した。

前史:昭和末期から平成初期の読響

私の読響入団が1978年(昭和53年)で4年後の1982年に読響創立20周年を迎えたわけですが、この頃の読響はオーケストラの組織としてまだ不十分な点が多々ありました。長いことオーケストラ内のトラブルが続き、コンサートマスターや各セクションの主席や私達オーケストラメンバーのオーディションもきちんとした制度の中で決まっておらず、そういう中で1980年にようやく久しぶりの常任指揮者としてフリューベック・デ・ブルゴス氏が就任しました。ご存知のように読響には(音楽団体として)日本で最初に労働組合ができました。当時、音楽団体に労働組合はそぐわないのではないか、というようなご批判もあったようですが、以降組合と財団との協力によって私達の労働条件や制度的な問題が飛躍的に改善されて行きます。そして前述のフリューベック氏(在任1980-1983)を皮切りにレークナー氏(同1984-1989)、尾高氏(同1992-1998)がそれぞれ常任指揮者に就任しました。

リューベック氏はスケールの大きいラテン系の色彩あふれる音楽づくりをする、私の大好きな指揮者でしたが、2ヵ月にもおよぶ欧州公演の成功にもかかわらず、読響がまだ技術的についていけなかったこともあり、残念ながら2年で退任となりました。

続くレークナー氏も我々が当時もっとも期待をもって招聘した指揮者でしたが奥様を亡くされてから、大変な愛妻家であったためか気落ちしてしまわれました。

昭和から平成に移り、1992年(平成4年)に常任指揮者となった尾高氏は20代で東フィルの常任指揮者に抜擢、その後BBCウェールズ響の首席指揮者に就任したりして日本の若手指揮者のホープとして最も期待された指揮者でした。

2回の欧州公演を成功に導き、当時はあまり演奏機会のなかったイギリスの作曲家の作品、エルガー交響曲ブリテンの「ピーター・グライムズ」などを意欲的にとりあげ常に未来志向でした。しかし残念ながらここでも進化途中の読響とは空回りしているような印象がありました。現在、名誉客演指揮者として再び読響との関係が深まり、お互いに落ち着いた成熟した音楽を聞かせてくれることに期待しています。

常任指揮者がフリューベック氏からレークナー氏、尾高氏と受けつがれて行く流れの中でオーケストラの体制もどんどんと整っていきました。まずコンサートマスターに岡山氏、尾花氏、続いて藤原氏が着任。さらにチェロの毛利氏、嶺田氏、ヴィオラの店村氏、生沼氏、ホルンの山岸氏らがソロ奏者に就任し、その他のセクションの主席奏者もオーディションで次々と決定していきました。

1997年のアルブレヒト氏との初共演は当然、尾高氏の常任指揮者任期満了にともなう次期常任指揮者候補としてのお手合せでした。

我々は自分達の仲間となるオーケストラメンバーはもちろん、先に触れたコンサートマスターや各主席奏者、そして常任指揮者を投票により自分達の手で決められます。アルブレヒト氏はほぼ満票で私達の常任指揮者に就任しました。

ハインツ・レークナー(指揮) 読売日本交響楽団/ドヴォルザーク: 交響的変奏曲 Op.78, 交響曲第7番, スラヴ舞曲第10番

ハインツ・レークナー(指揮) 読売日本交響楽団/マーラー: 交響曲第1番

ゲルト・アルブレヒト:躍進の立役者

アルブレヒト氏は9年間(1998-2007)の在任中、私達楽員が想像していなかった多くの実績を残しました。

まず演奏会と並行してなされた、ベートーヴェンブラームス交響曲全曲のレコーディングです。

私達にとってこのように短期間で集中的に一人の作曲家の作品を演奏することはかつてないことであり、その作曲家の全体像をつかむためにもたいへん有意義だったと思います。

そして2回の欧州公演がありました。今までの海外公演は、日本の他のオーケストラもそうだったと思いますが、ほとんどが自主公演でした。しかし読響のこの2回の海外公演は、カナリア音楽祭では、五大陸オーケストラ・フェスティバルのアジア地区代表としての招待であり、ザルツブルク祝祭大劇場での公演は日本のオーケストラとして初めての「シリーズ公演」への招聘でした。

現地の批評には「奇跡的な成功」「記念碑的な演奏」と評されていました。

これは、まぎれもなく、アルブレヒト氏のヨーロッパでの知名度、実力、政治的手腕であります。

私達にとっても欧州公演の成功は大きな自信となりました。またカナリア公演でのヘンツェの「オーケストラの為の七つのボレロ」の初演の成功により、この後積極的に現代作品をとりあげるようになります。

正直、私の世代までの演奏家は現代作品には非常に消極的でしたが、2003年に再びヘンツェの「午後の曳航」を初演し、三島文学とドイツ現代音楽の出会いによる幽玄な世界を体験したこと、下野竜也氏の読響正指揮者就任もあり、近代の演奏機会の少ない作品や委嘱作品を含む現代作品の演奏機会が飛躍的に増えました。

(アルブレヒトは速いテンポと独特の「撥ね上る」棒が目についたとの質問に関して)

彼のバトンテクニックには、正直なところ、最初は随分戸惑いました。あまり器用な指揮者ではないのです。現代作品の複雑な変拍子などでは振り間違いもしばしばありました。そして私は彼のテンポは決して速くはないと思います。ベートーヴェン交響曲の緩徐楽章はむしろ遅いくらいだとみなしています。多分、ドイツ的な重厚な解釈からするとそう感じるかもしれませんが彼の音楽はそうではなく、テンポが速いというよりもアグレッシブとでも形容できる、とても劇的な推進力をもつからそう感じるのだと考えます。

古典音楽にも現代作品にも言えましたがこの推進力が彼のバトンミスまでをカバーしてしまうのです。

彼のリハーサル初日は、いつも恐ろしいくらいの速いテンポで始まりました。これは彼の音楽に対するアグレッシブというべき解釈のアピール、メッセージだったと思います。

オーケストラ内部のアルブレヒト時代の大きな出来事としてはコンサートマスター陣にデヴィット・ノーラン氏が加わったことが挙げられます。ロンドンを中心にヨーロッパでバリバリ活躍するコンサートマスターの来日と聞き、我々は期待と共に日本人だけのオーケストラで本当に大丈夫かと不安もありました。

しかし奥様も日本人(ヴァイオリニスト)で親日家ということで、彼が加わり、今までとは違ったスケールの大きい、ヴァイオリンセクションの出す響きに大変驚きました。

たとえどんなに素晴らしいソリストでも、誰でも出来るとはかぎらないコンサートマスターの仕事の重要性を、改めて認識しました。

アルブレヒト氏に話を戻せば興味深いエピソードとして私が印象に残っているのは、ヘンツェの作品のリハーサル中に何か自身に迷いがあると必ず次のリハーサルの時に「昨晩、ヘンツェに電話したら、こういう返事をもらったのでここをこう変更する」と言い楽譜を書き変えてしまいました。ヘンツェとは友人関係にあったのですから、当然本当の話と受け止めましたが、後日ベートーヴェンのリハーサルの時も、今までとは違った要求をする時に「昨晩ベートーヴェンに電話をしたらこのように変更してくれと言われた」と言い練習を進めました。はたしてヘンツェの楽譜変更の電話は本当だったのだろうか?

もう一つ個人的な思い出を付け加えるなら2012年6月14日、正に私の誕生日当日、もう常任はしりぞいていましたが、偶然にも私が最も信頼していたアルブレヒト氏の指揮による大好きなブラームス交響曲でオーケストラメンバーとして最後の舞台に立つことができました。40年近い音楽生活で最も幸せな瞬間でした。

大きな感謝です。

ブラームス: 交響曲 第1番、 悲劇的序曲、 大学祝典序曲

ヘンツェ:「午後の曳航」/ゲルト・アルブレヒト(指揮) イタリア放送交響楽団

ゲンナジー・ロジェストベンスキー:マジシャン

ロジェストベンスキー氏とは、私が入団した翌年の1979年の初客演、そして9年後の1988年に再び来日してからほとんど毎年のおつきあいでした。

初客演のリハーサル初日、我々は大変緊張していました。なぜならば、ロシアの重鎮、大変練習が厳しく、妥協がない指揮者だという噂が流れていたからです。

曲はショスタコービッチの7番の交響曲、私達のリハーサル時間は、11:00から15:15です。定刻に現れた彼は最初に「グッドモーニング」とだけ言うと、すぐにタクトを振り始めました。第1楽章から第4楽章まで通しました。そして「シーユーアゲイン」と言って帰ってしまいました。その間およそ90分間、何も言わないのです。

我々は演奏の出来の悪さゆえに彼が怒って帰ってしまったと思い、明日は大変なことになると覚悟を決めました。しかし4日間の練習すべてが同じでした。

その後、度々来日するようになってもほとんど同じような状態で、あるときチャイコフスキーの「弦楽の為のセレナード」と「くるみ割り人形」第2幕全曲というプログラムのリハーサルで4日間のリハーサル中、3日目まで弦楽セレナードの練習をしないのです。我々弦楽器の人間としてはむしろセレナードの方をたくさん練習してほしいのですが、4日間の練習の最後の15分間だけ、それも部分的に、しかもうまくいかない所はコンサートマスターの尾花さんの方を向いて「そこは君のソロでやってくれ」と。尾花さんは苦笑いでした。

翌日、本番でのGPでもやはり練習せず、正にぶっつけ本番でした。緊張の極地での本番でしたが、後で録音を聞いてみたら最高の出来なのです。正に「棒の魔術師」、棒がすべてを語り、伝えるのです。

ロジェストベンスキーが天才的な棒のテクニックをもった職人だとすると、アルブレヒトは、頭の中で計画的に音楽を構築していくのですが、ただそれだけではなく、劇的なパッションをもってどの時代の音楽でも我々を興奮に導く非常にすぐれた、理想的な学者だと思います。

Rachmaninov: Symphony No.2/ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、ロンドン交響楽団

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ:偉大な音楽の体現者

最後にスクロヴァチェフスキですが、2007年に常任指揮者に就任するまでに、何回かの客演があり、着実に関係を深めてはいましたが、世界的な巨匠をまさか我々の常任に迎えることになるとは夢にも思っていませんでした。しかも84歳での常任指揮者就任は、世界的に見てもあまりなかったことと思います。

常任指揮者を3年間務めた後も亡くなる2017年までのあわせて10年間のお付き合いは読響にとって最も大きな財産だと思います。

彼の音楽に捧げる情熱は生半可ではありませんでした。エピソードとなりますが、彼はロジェストベンスキーとは正反対にリハーサル時間を1秒たりとも無駄にしません。それどころか、時間をオーバーして、インスペクターが止めに入ると、老歳のために耳が聞こえないふりをしたり、目が見えないので時計が見えなかったと言ったりするのです。オーケストラのほんの少しのリズムのずれや音程の乱れはすぐに指摘するのに!練習中はすべて暗譜ですが、休憩中はいつもスコアーを勉強しています。はっきり見えているのです。

そして驚くことに練習4時間の間、90歳を過ぎても椅子にすわらないのです。この姿を見て、どんなに練習がきびしくても彼に苦情を言う楽員はいませんでした。

本番の結果は皆さんもよく知るとおりです。

正にミューズの神の化身のような人でした。

スクロヴァチェフスキ(指揮)、読売日本交響楽団/ブラームス:交響曲第2番

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(指揮)読売日本交響楽団/ブルックナー:交響曲第8番(2010)

ベートーヴェン:交響曲第3番≪英雄≫/第4番/第5番≪運命≫

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ベルリオーズ:愛の情景~劇的交響曲≪ロミオとジュリエット≫より

ブルックナー:交響曲第8番(2016)

シューマン:交響曲全集

終わりに:「令和の読響」へ

昭和から平成にかけて、私たちは多くの巨匠と共演する機会にめぐまれ、同時に先程から申し上げているようにきちんとした制度のもとでオーケストラの機能を作りあげ、想像をこえる音楽的進歩をとげることができました。

今、私が退団してからも、若い優秀な人材が厳しいオーディションを通りぬけ、入団し活躍しています。

私が退団したのが丁度創立50周年でした。

次の創立100周年には私は立ち会うことはできませんが、その時の読響を想像しつつ応援しつづけていきたいと思っております。

シルヴァン・カンブルラン(指揮) 読売日本交響楽団/マーラー:交響曲第9番

メシアン: 歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》

アンコール:マゼールの「復活」の思い出

(返書を頂戴した後、ロリン・マゼールが1987年に読響に客演した際のマーラー:交響曲第2番「復活」のライヴ録音が突如発売された。そのことを清水氏にお知らせしたところ、お手紙を下さった。一部を御紹介する)

二夜連続で行なわれた文化会館での特別演奏会であの感動と興奮は、私の中で読響の演奏会の中でも一、二を争う名演だったと思います。

普段の練習日程を大幅に延長してむかえた練習初日。会場に現われた彼の姿は圧倒的で、正にカリスマそのものでした。「復活」の冒頭、低弦の動機がなったとたん、もう、今までの読響の響きではないのです。

あとから聞いた話しですが、マゼール自身も一週間練習以外はホテルから外出せず、食事も最小限にして本番に向けて集中していたそうです。

本番のあとの我々オケメンバーとお客様の興奮は正にすさまじいものでした。

私も仲間と上野の山をおり、感動を語りあい終電をのがし、二日つづけてタクシーで帰宅しました。

mikiki.tokyo.jp

ロリン・マゼール(指揮) 読売日本交響楽団/マーラー:交響曲第2番

最後になったが清水潤一氏と御子息の章雅氏の御協力に心から感謝申し上げたい。

※文中一部敬称略